連続インタビュー 01 1968-69年:東大入学と全共闘運動への共振

日時:2016年5月21日(土)14:00〜16:00
場所:布野修司先生宅(小平市上水本町)
聞手:青井哲人(A)・石榑督和(I)・弓削多宏貴(Y)・大谷剛(O)
公開:2016年7月30日

A 今日は第1回ですので、1968年4月に先生が東大に入学されてから1〜2年くらいを中心に、詳しくお話をうかがいたいと思います。雛芥子【ひなげし/1971-/三宅理一・杉本俊多・布野修司らのグループ】の活動などは次回にして、まずは大学に入った頃の状況を知りたいんですね。いわゆる学園紛争の状況を、学生時代の布野先生や、同期の学生たち、先輩、教員たちがそれぞれどう捉え、何を考え、どう身を処したか。それが建築にどのように関わってくるのか、こないのか。
布野 学園闘争が建築に関わらないということはありえないと思う。僕の場合、決定的に影響を受けて、その上で建築を選択したわけだけどね。
A ですよね。だけど、建築分野ではたとえば全共闘運動と建築的な潮流や運動との関係を正面から指摘したり論じたりするのはかなり稀で、同時代的に分からないヤツには分かりようがない、という感じがこれまで続いてきたようにも思います。だからこのインタビューは重要だと思うんですけどね。とにかく、今日はそういうわけで1968年・69年の2年間くらいの状況と、それが先生の目にどのように映っていたかをお話いただけたらと思っています。
布野 ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展【第14回「In the Real World: 現実のはなし〜日本建築の倉から〜」(2014年)】のために中谷礼仁先生たちがここに「家探し」に来たんだよ。その時に捨てずにとってあった当時のビラとか色々引っ張り出したんだけど、暇になったら整理することがあるかなあと思って、まとめておいたんだ。今度青井先生たちが来ると言うんで、ちょっと見てみたら大学1年生の時の日記があったんだよ。記憶も何もなくてビックリしたんだけど、(I)がS43.11.5〜S.45.4.30となっていて(II)が続いてS.46の5.5まであるかな。その後、もう一冊あって、71.8.1から72.05.15まである。だけど、飛び飛びで、日記というより、メモというか、今でいえば、なんか呟いている感じかな。別にレポート用紙に書いたのがあって、これは1968年06.20, 06.27, 06. 29と09.27がある。
A なんて書いてあるんですか、日記の表紙。
布野 「襤褸屑の詩」。今でもずっとこのタイトルで日記書いてる。らんるとも読む。『襤褸の旗』足尾鉱毒事件を告発した政治家・田中正造の半生を描いた作品】という吉村公三郎の映画が封切られたのは1974年だけどね。
A そうなんですね。知りませんでした。
布野 最近は旅行行ったときしか書かなくなってたけど、還暦以来またはじめて、毎日メモしてる。人に読ますもんじゃないけど。
A ああこれ何かの引用ですか。
布野 ああ、これは歌詞。えーっと、ザ・フォーク・クルセダーズ。「青年は荒野をめざす」の一節かな?「悲しくてやりきれない」かな【「帰ってきたヨッパライ」(1968年)はオリコン初のミリオンヒット】
A 笑
布野 読めばそのとき何考えてたか思い出すかな。何かちょっと女の子っぽい感じだなあ。
A 今からはちょっと想像できないくらいキレイに書いてますね。
布野 あはは(笑)。


1968年1-3月    東大闘争の背景
A 1968年の4月に入学した時はもう授業がないんでしたっけ。
布野 いや、そんなことはない。でも東大は入学式以前から荒れていた、医学部の処分問題があって。
A 3月ですね、処分は。
布野 医学部の処分は3月、卒業式、入学式阻止行動があって、教養学部も含めた全学ストライキが6月。6月20日に全学1日ストをやった。日記はその日が最初。強烈なインパクトがあったんだと思う。
A 先生がおっしゃった医学部処分問題は、東大医学部と青医連(青年医師連合)が、医師法一部改正、登録医制度に反対して研修協約の獲得を掲げてストライキに入ったのが1968年1月。大学当局による処分が3月【3月12日処分発表】。先生が入学する直前ですね。
布野 インターン闘争ということで医学部は1月に無期限ストに入った。当局が取り合わないでいる中で「医局長缶詰事件」が発生する。この件で学生17名が処分された。東大闘争は、医学部でまず火がついた。早稲田は少し早くて66年に学費値上げ反対で火種が燻りだしていた。そして、僕が高校3年で受験勉強しているときだから67年かな、アメリカのヴェトナム戦争を後方支援していた佐藤栄作首相がヴェトナムも含めて東南アジアを訪問するというんで、それを阻止する闘争が羽田であって、京大生が亡くなった中核派山崎博昭。東大全共闘議長の山本義隆は高校の先輩、社会学者の上野千鶴子は京大の同級生に当たる】
A 67年10月の羽田闘争ですね。続く11月には首相がこんどはアメリカに行くっていうのでもう一回羽田で衝突があります。
布野 佐世保エンタープライズ寄港反対運動もある【1968年1月、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】。そのころから活動家学生がヘルメットかぶってゲバ棒持って、デモをするのが日常的になっていく。街頭活動を展開したのは、ポリティカルな学生、新左翼の党派に属した。
 東大の話に戻ると、医学部と青医連がストライキに突入して、当局との小競り合いの中で「缶詰事件」が起こった。執行部がろくに確認せずに学生を処分した、そのうちの1人は現場にいない、実に杜撰な処分だった。不当処分ということで卒業式も入学式も阻止する構えの抗議行動になり、それが全学に広がっていった。青医連(青年医師連合)、医者の卵たち、つまり医学部の大学院クラスが自らのプロフェッションの基盤を問いながら立ちあがった。
 次に先鋭化したのは都市工学科かな。都市工では、公害の問題が大きかった。都市工学科は結構お役所から教授を招いてきていた。そうした中には公害についてどう責任取るのかと問われて全然答えられない教授がいた。大学院生の方が勉強もしているし、鋭い。痛快だったんだけど、その教授は自ら辞めざるを得なかったんだよ。団交(団体交渉)って言ったけど、すごく真面目なディベイト、学会、シンポジウムの趣があった。結局、東大闘争の根本は、何のための学問であり、何のための研究なのか、を根源的に問うことだったんだよね。高度成長を支えてきた産学協同体制は学問のあり方として果たしていいのか、ということが各分野共通の問題として浮かび上がってきていた都市工学科の大学院が無期限ストに入るのは1968年9月21日】。都市工は、医学部と並んで、東大全共闘の牙城のひとつだった。


1968年4月    東大入学の頃
布野 1968年の3月の卒業式はあったんだけど、学生たちの座り込みがあった。入学前に下宿先を探しに上京していてその光景を見てる。学生たちが卒業式の日に安田講堂前に座り込んで抗議していた。加藤登紀子がいた。歌手としてもうデビューしていたんだと思う、顔を知ってたんだから。入学式は4月12日だったけど、騒然としていて、僕なんかは安田講堂に入れなかった。
A 入学生なのに入学式に入れなかった(笑)。
布野 いや、規模からしてそもそも全員は入れないんだよ。
さっき見つけたんだけど、手書きのガリ版刷りのカリキュラムがある。43年4月って書いてある。
A おお、これは貴重ですね。ガイダンスとかもあったんですか。
布野 あったと思う。
A 赤線が引いてあるのは先生が取った授業ですか。
布野 そう。樋口清先生に図学を習った。鹿島建設から東大の先生になった、いま100歳くらいかな、ご存命だよ。樋口先生の下に、広部達也先生、横山正先生、野口徹先生もいた。太田邦夫さんも助手を2年くらいしてから東洋大に行ったんだけど、学生は伊東豊雄さんとか松永安光さんの世代だ。
I 布野先生はその頃どこに住まわれてたんですか?
布野 「基学寮」っていう民間の寮【当時の名簿では、布野の住所は「目黒区上目黒8-683」とある】。隣に駒場東邦高校っていう進学校があった。「基学寮」は、風呂は共同で、朝飯はついていて食堂で食べた。駒場寮は活動家の拠点だからと言って、地方から来る学生たちの親は避けたんだよね。東大に合格した松江南高校の同期3人と一緒にその「基学寮」に入ったんだ。そしたら、僕の真ん前の部屋に住んでいたのが佐伯啓思【1949-/経済学者・思想家】。いま朝日新聞で月1回「異論のススメ」というコラムを書いてる。佐伯は、西部邁【1939-/評論家】の弟子になって保守派の論客ということになったけど、彼が経済学部に行ってからも、しょっちゅう色んなこと議論してたよ。妹とも一緒に会ってた記憶がある。
A 妹さんもいたんですか?
布野 えーっとね、3つ違いだから出てきたのは3年後の話だけどね。妹は御茶ノ水大学の物理に行ってた。
A 保守派の論客って、その場合の「保守」はどういう?
布野 いや、それはマスコミの言い方だし、学生の頃のことじゃないよ。西部邁全学連の活動家だったし、新左翼だったんだけど、後にある種の転向をする。日本には守るべきものがあるっていうことをベースに思想を組み立てるようになる。彼は駒場(東大教養学部)の助教授になるんだけど、佐伯啓思はその研究室に入ったかどうか知らないけど、門下生になったんだと思う。京都大学教授になって、ごくわずか同僚だった時に一度飲んだ。それと彼は滋賀大学の経済学部に居たことがあるんだけど、僕が滋賀県大に移った直後ぐらいに訪ねてきてくれて、彼が主催していた『京の発言』という雑誌で対談(「京都の特権」 対談 布野修司×佐伯啓思2007年3月)したことがあるよ。


43S1-5B    クラス・民青・共産党
布野 僕のクラスは50人くらいだったけど、今でもそうだと思うけど、1年生は語学のクラスで編成されていて、「43S1-5B」といった。昭和43年のS1の5B、S1がサイエンス1(理科一類)でBはドイツ語でその5番目ということ。こういう暗号で自分のクラスを言うわけ。
A えっ、暗号?
布野 暗号っていうか記号、正式な言い方だったと思うけど。つい3年前から一緒に入学した同級生と集まり出したんだ。それが面白くってね、建築の同窓会行くよりも(笑)。東大副学長【松本洋一郎(理化学研究所理事)】はいるし、もう「前」になったけどね、物理学会元会長とかも、ノーベル賞級の仕事してるらしいんだけど、他にも多士済々。社会的には上下左右があるかもしれないけど、クラスメイトということでタメ口がきけてフラットなのがいいね。定年間近になって、学生の頃がなつかしくて集まりたくなったということなんだけどね。まあ集まると血糖値がどうとか、どこが痛いとかだけどね(笑)。一番の出世頭は乗り換え案内つくったジョルダンの社長【佐藤俊和】かなあ?いきなりITのヴェンチャー立ち上げて、今も新宿に100人くらいの会社かな?出版社も持ってる。面白いから毎年1回じゃ足りないって数人で時々会う。
 僕が入った年が、大学生が学生服を着る最後の年になったと思う。応援団の学ランは別だよ。次の年から一切学生服がなくなった。僕のクラスに一人だけ学生服着てないヤツがいた。教育大の卒業でね、格好良くてね、今でもギター弾くんだよ。PPMってわかる? ピーター・ポール・アンド・マリー、三人組、女性と、あれ兄弟だったかな? 過食症【正しくは拒食症】で死んじゃったんだよ。あ!あれはカーペンターズか。
I カーペンターズですねえ(笑)。
布野 とにかくバンドやってたその一人だけ学生服を着てなかった【入学式の写真をよく見ると実際は二人いた】
A 学ランは規則ですか、それとも習慣みたいなもの?
布野 規則にはない。東大で最初に学生服着なかったのは庄司薫らしい。次の年、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(『中央公論』1969年5月号)を書くんだけど60年安保の時にセーター着て本郷構内を歩いていたって話を聞いたことがある。当時みんなが読んだのは、後に文学部長になる柴田翔の『されどわれらが日々−』(文芸春秋、1964年刊/初出は同年の『象』7号に掲載)。東大生はそれ読むと、あそこの何号館のどこでというのがよくわかるから、みんな読んでた。柴田翔の妹が鈴木博之さんの奥さん【鈴木杜幾子 1945-】。美術史のね。
 当時、学生組織として共産党の「民青」日本民主青年同盟。1923年設立の日本共産青年同盟が前身。全共闘などの反代々木派学生や新左翼セクトトロツキストと呼んで批判】があった。僕らは43S1-5Bだけど、42S1-5Bの先輩が留年して、数人クラスに加わってくる。彼らがオルグするわけ。共産党系の学生組織、今でもあるでしょ。クラスで自治会委員の選挙があって、8人代議員を決めるんだけど、そうすると彼らが8枠全部持っていくわけ。なんか知らないけれど、そういう仕組みがあった。
I 43S1-5Bで入ったのが50人くらいいて、留年がプラス8人くらいいて、授業は60人弱だったと。
布野 そう。代議員は8人だった。自治会があってストライキ決議する場合は、重要だよね。僕らはというと一般学生なんだけど、「民青」諸君の演説を聞いてもあんまりピンと来ない。わりと早かったよ、「民青」おかしいんじゃないか、既成政党の指令で動いているだけなんじゃないか、ってみんな思うようになっていった。現場にいない学生を処分するってとんでもないって誰でも素朴に思うわけだから、スト決議自体はすぐ通った。全学、大学院も含めて。
A 決議をする単位は・・・
布野 学部単位。それ以前にクラス決議がある。
A 自治会すなわち「民青」というわけじゃないですよね?
布野 自治会は学生組織なんだけど、さっき言ったみたいな仕組みがあって、一般の大学では、「民青」が執行部を取るのが普通だった。しかし、1960年安保の時に分裂していたわけで、新左翼の党派が勢力を伸ばしていた。大学の学生自治会にも勢力を確保してきて、60年代末から70年代初頭にかけて逆転していった。東大の場合は、43S1-5Bだけじゃなく、それぞれのクラスで明確に逆転していく過程を経験したわけ、僕らは。次の年の代議員は8人全部が全共闘支持になったんだからね。「民青」を追い出しちゃったわけ。民青は当初から全共闘の占拠闘争を批判していたし、党本部の方針を優先していた。最終局面で「民青」も武装するんだけど、その攻撃対象は同じ学生、全共闘派だったわけ。経済学部の「民青」は実に強力だった。


6月20日全学1日スト、7月5日無期限スト突入
A 68年の最初は授業があったけど、6月から止まってしまうわけですね。第一次の安田講堂占拠は6月15日です。
布野 入学してしばらくすると連休になるでしょ。連休が空けて6月に入って、さっきも話したけど、6月20日には全学1日ストライキがあった。この時は、僕らは脳天気に授業に行ったんだよ。そしたら門が閉じられてて、ピケ?が張られてて、我々を入れないわけ、1年上の連中がね。意識的に留年した先輩もいたけど(笑)。それで「何でだ!われわれには授業を受ける権利がある!」って。そういう感じだった。日記にもそう書いている。
A 第一次の安田講堂占拠が15日で、17日に機動隊が導入されて学生たちの反発を呼ぶ。20日にいまお話のあった1日ストライキによる全学集会というのがあって、かなり盛り上がったんで、ようやく28日に大河内総長が姿を見せて弁明をする。心電図をつけて弱々しい老人みたいに現れるとか、芝居がかかった演出をしたっていう有名な話がありますけど、それは見ました?
布野 それは見てない。僕はその頃全然本郷に行ってない。
A そうですよね。今までのもぜんぶ駒場の話ですもんね。
布野 そう、大学に入れなかったとかいうのも教養学部の話。ロックアウトで。
A それ「ロックアウト」っていう言い方でいいんですか。
布野 逆だよ、逆。
A 「封鎖」ですかねロックアウトは大学側が機動隊を導入するなどして行う学校閉鎖】
布野 そう。僕らは「スト破り」とか言われた。破るつもりはなかったけどね。
A 勉強する権利があるっていうとスト破りって言われたわけですか。
布野 そう。授業を受ける権利があるって言ったよ。今は親が言う。手続き的には、各学部、各学年でスト決議をやっていく。それに従うのは当然というのが「封鎖」の論理。それで駒場の教養でも無期限ストに入る。島泰三安田講堂1968-1969』をみると、文学部は6月26日に無期限ストに突入してる。7月5日に安田講堂を占拠し【第二次安田講堂占拠】教養学部は同じ日に無期限ストライキに入った。


学園の状況はどう見えていたか
A 先生は松江から出てきてまだ3ヶ月くらいなわけでしょう。状況はだんだん理解していったっていう感じですか。
布野 いや、だいたいのことは分かってたよ、東京行く前から。
I さっきの早稲田とかの動きも高校時代から知ってらっしゃったんですか。
布野 もちろん。だから親父とか、いや親父はあんまり言わなかったけど、親戚の連中からは「お前東大入ったのはいいけど、ヘルメット被ったり、ゲバ棒もったり、そういうのやるなよ」とか言われて上京した(笑)。
A 僕も田舎だから何となく想像できる(笑)。
布野 だいぶん後の話になるけど、こっちが少し目覚めてきたら親父が心配してね。親父は松江市で建築とか都市計画の役人をしていたわけ。それで芦原義信さんとか菊竹清訓さんが設計で来るでしょ、親父は芦原さんに「うちの息子がアカになって困ってるんですけど」とか相談してたらしいよ(笑)。まさか、建築に入って教わるとは思わなかった。
A 面白い。いい話ですね(笑)。
布野 そしたら「若い頃はアカくなきゃダメだよ」って言われたんだって(笑)。いや事実ですよ。


自主ゼミはじまる
布野 とにかく気がついたら、大学が止まっちゃったわけ、動かない、無期限に。だけど我々1年生からみれば、ぜんぶ先輩連中がやってることなわけ。僕らは「えーっなんで」とか、「休みだいいなー」っとか言ってた(笑)。でも「やることねーなー」ってことになって、みんなクラスに集まって自主ゼミみたいなの始めたわけ。それが終わると、僕は渋谷で毎日のように映画観てた。名画座は100円か200円だった。駒場から渋谷は15分くらいで歩けるから。あとは安いガットギター買って、自己流でギター弾くというか、弾いたふりするとかね。そういう生活に入った。
 ただ自主ゼミはかなり力入れた。さっき言った物理学会会長になった倉本義夫とか、4〜5人でね、分厚い本を読んだ。高木貞治【1875-1960/数学者】の『解析概論』。数論というか類体論だよね。もちろん、高木貞治がそんな大先生とは知らなかったけど、フェルマーの最終定理に繋がってるんだよね。よっぽど力がついたよね。そういうことをやってた。大学は、自分で勉強するところというのは、僕の原点なんだよ。
 同窓会で聞いたら、あの頃もっぱら合コンやってたヤツもいたらしい。1年上に今話題の舛添要一【1948-/国際政治学者・政治家】とか、鳩山邦夫【1948-/政治家】とかがいて、法学部では鳩山が一番で舛添が二番なんて言うんだけど、彼らは駒場の町で麻雀やってたよ(笑)。
I クラスで集まるというのは、大学に集まってたんですか?
布野 うん、普段は。
A 授業はないけれど出入りはできた。
布野 もちろん。自主ゼミは教室でやってた。
A 街中でやってたとか、そういうことじゃないわけですね。
布野 色んな先生とも結構しゃべったよ。数学の先生とか、「俺なんかいつでもやめてやる」みたいなこと言ってた。
A 先生たちも大学には来てた?
布野 研究室には来てたよ。「俺はいつでもタクシーの運転手でもやって食えるから」 という教師もいたし、オドオドしてる教師もいた。完全に全共闘支持の教師もいた。
A 自主ゼミはじめたのは、封鎖・スト突入からすぐでしたか。
布野 正確には覚えていないけど割と早かったと思う。
A 夏休み入る前には始めていたという感じですね。
布野 4〜5月に授業何回かあったし、学生どうしは顔が知れるし、新歓コンパなんかやったのか覚えてないけど、渋谷かどっかで飲んだような気もする。だから自然に自主ゼミとかできたんじゃないかと思う。クラス会というのはあった。行くと上から留年して降りて来た連中がいろいろ演説してくれたのも情報源だった。
A ああそっか(笑)。暗号でいうと42Sの人たちですね。
布野 夏休み前まではいろいろあって、夏休みに入ったら帰省でしょ。
A それまでは全然本郷の様子は見に行ってない?
布野 野次馬的に何回かあるかもしれないけれど、そんなには行ってないと思う。


68年秋の鮮烈な記憶    10.21国際反戦デーの闘争
布野 帰省中の8月10日に大河内談話が出た。中身忘れちゃったけれど、「こうこうこういうふうにします」みたいな。田舎でそれ聞いて、「あ、これで新学期から授業が始まるな」って思った。状況解ってないよね。
 ところが9月に戻ってきても、一向に授業が始まらない。クラスで色々議論しはじめて、大河内談話も含めて相当問題だぞとか、「民青」のヤツらはおかしいとか、そういう議論がガンガン起こるようになった。ノンポリだって主体的にならざるをえない雰囲気が出てきた。
A 1年生クラスといえども秋口には政治的にざわめきはじめたわけですね。それより前に、50人のクラスのなかでも早く目覚めちゃうヤツもいましたか?
布野 かなりマセてたのは東京の連中ですね、やっぱり。
I 割合的には東京の出身の人はどのくらいいたんですか?
布野 どのぐらいだったんだろう、今はどのくらいなの、東大入学者に占める東京出身者の割合は。建築に進んでからのことイメージしちゃったかなあ。S1-5Bの時はどうだったかな・・・。普通のクラスだったけど、日比谷高校とか、教育大付属とか、やっぱり東京組はマセてたな。
A そういうヤツらは色々議論してるんですね。
布野 皆するわけだけど、僕は専ら聞く側だった。前出て喋るのは東京の学生が多かった。
A で、そのマセてる東京のヤツらというのは、皆、新左翼的というか、全共闘シンパ的だったという理解でよいですか。
布野 党派は原則として関係ない。むしろ党派を敬遠してた。「アンチ民青」は一致していた。学生たちの間では、全共闘が追求しようとしていることの方が正しいっていう意見がすぐ多数派になっていった。圧倒的に全共闘シンパが多くなっていった。
A 「民青」はダメっていうのは、共産党の組織の論理しか言わないというようなことですか。
布野 共産党も既に戦後民主主義体制の歴史を担ってきた組織だという感じかな。非転向の共産党と言われても、改革の方向は見えなかった。新左翼はもともと共産党と袂を分かって出てきたわけだしね。とにかく僕が鮮烈に覚えているのは秋からだね。「10・21」の国際反戦デーはすごかった【いわゆる新宿騒乱(1968.10.21)。8月8日に新宿駅で米軍のジェット燃料タンク車が爆発した事故を踏まえた反戦運動だが、新左翼は騒擾罪適用を覚悟して暴動・破壊を行う。東大本郷からは3千人が「出撃」したという】。新宿で電車が全部止まって、みんな歩かされた。歌舞伎町じゃ催涙ガスがバンバン飛んできた。革マルとか中核とか活動学生が暴れたわけだ。国労国鉄労働組合)もこれを機にストを打って交通は完全に麻痺。国鉄民営化は国労を潰すというのが大きな目的だった。学生も、どんどん街頭に出ていかざるをえないというか、攻めに出るそういう情況になったのは、1968年の秋口からだった。
全共闘運動は日大の方がちょっと先行していたんだけど、10・21のあと、11月に安田講堂前で合流するんですよ、日大全共闘と東大全共闘【11月22日の「東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会」】。僕はその場所にはいた。そのとき東大全共闘議長の山本義隆さんもそこにいた。感動的だった。


運動とメディア、山本義隆のこと
A その山本義隆さんが最近書かれた『私の1960年代』(金曜日、2015)を今日は読んできたのですが、山本さんの本だと日大全共闘が立派な日誌をつけていたと書いてありました。当時の運動は、行動しながら同時に記録するといった指針があったんですか。
布野 歴史に参加している、それを記録に残そうという気はあったと思う。僕の「日記」は、ただの個人的なメモだけどね。一方、機関誌は、戦いのメディアだからね。示威のためにもオルグのためにも出した。タテ看、ガリ版刷りは必須だった。あと、東大全共闘の機関誌『進撃』とか、ほとんどの大学の全共闘の機関紙は、ネットで読めるよ「1968-70全国学園闘争図書館」を参照 】。こういうのを山本義隆さんが集めてまとめたんだ。
A 山本さんが中心なのですね。
布野 中心というか、東大闘争関係はほとんど義隆さんが一人でやった。『東大闘争資料集』全23巻を執念で国会図書館に収めた(1992)。僕は義隆さんを尊敬していて。本、全部持ってる山本義隆『世界の見方の転換』1〜3、みすず書房、2004/『十六世紀文化革命』1〜2、みすず書房、2007 ほか多数】。予備校教師をしながら「科学史」の仕事をしていくことになるんだけど、全ての資料を原本に当たって原文で読んでる。天文学や透視術など、実際に解いてみせてくれている。プトレマイオス【Claudius Ptolemaeus, ca.83-ca.168/科学者】の『アルマゲスト』なんて難しいよ。建築や美術だって、アルベルティ【Leon Battista Alberti, 1404-72/建築家】とかデューラー【Albrecht Dürer, 1471-1528/画家】とかちゃんと扱ってる。あと青井先生は知ってるでしょ、オランダのシモン・スティヴィン【Simon Stevin, 1548-1620/数学者・物理学者】については相当詳しく書いてるよ。翻訳書もある【J・T・デヴレーゼ『科学革命の先駆者 シモン・ステヴィン』山本義隆監修・中澤聡訳、朝倉書店】
A ステヴィンですね。京大布野研がオランダ植民都市研究(1997-99頃)をやっていた頃によく名前が出ていましたね。山本さんは運動のことは同時代的には書いてないんですか。
布野 振り返って60年代のこと書いたのは『私の1960年代』が初めてでしょ。「金曜日」にたぶん書かされたんじゃないかな。ちょうど安保法制問題とかもあって。予備校教師としては、回顧談は書かなかった山本義隆『知性の叛乱:東大解体まで』(前衛社神無書房、1969)がある】
東大紛争文書研究会『東大紛争の記録』(日本評論社、1969)というのがあるんだけど、これ1月15日、安田講堂攻防戦の前にでている。すごい早い。まあ収束を望んでいたグループの編集だから、僕らは評価してなかったけどね。


新左翼諸党派と全共闘
A 少し時間を巻き戻して確認したいのですが、東大全共闘は、さきほど話のあった第二次安田講堂占拠、そして教養学部が無期限ストに入ったその日、つまり7月5日に結成されていますね山本義隆を議長とする全学共闘会議設立。ただしこの時点では「共闘会議」と称したらしい。安田講堂の占拠・解放以後、さらなる学生・院生の合流、一部の助手や医師の参加があり、名称もいつしか日大全共闘の名を真似た「東大全共闘」に変わり、10月以降の団交等でも山本が交渉の代表を務めた】。でも、その全共闘の勢力は、68年の春や夏には、クラスのなかではまだ力を持っていたわけじゃなかったということですね。
布野 さっきも言ったように、自治会の単位であるクラス代議員は、当初民青諸君が多かった。それが1年後にはクラスの代議員8人が全共闘支持になっていたということ。勢力はドラスティックに逆転したんだ。
A 全共闘が実効支配・・・
布野 実効支配ということは全くない。全共闘ってのは、別に司令塔があるわけじゃなくて、連合体だよね。
A ただ、全学連のレベルでみると、68年の時点では主流派はもう新左翼になっていると思うんですが。
布野 68年じゃなくて、60年安保をめぐって共産党が分裂して新左翼がでてきて、それが主流派になっていくんでしょ。
A 「全学連主流派」という言い方があって、その主流派というのはブント傘下の社学同のことを指すようです【全日本学生自治会連合(1948-)。当初共産党の影響下にあったが55年六全協以降は共産党批判派が「主流派」となった。西部は58年12月結成のブントに加盟。59年に全学連中央執行委員】【ブント=共産主義者同盟(1958-)。全学連という動員数最大の大衆運動を牽引して実績をあげた学生たちが、権威を失いつつあった共産党中央の指導に不満を膨らませ、独立の党派を立てた。共産党から独立した左翼党派として、また学生主体の前衛党派としても、世界初と言われる。指導部は香山健一、森田実らであったが、やがて島成郎、姫岡玲冶(青木昌彦)、清水丈夫、北小路敏らに移った。若手に、西部邁柄谷行人らがいた。ブントの活動は60年代後半の学生運動と重なりあう部分が多い】
布野 社学同は何色だっけなあ社学同共産主義者同盟社会主義学生同盟)は「学生ブント」とも呼ばれた。赤ヘルに白で「社学同」のロゴ】。ブントは赤ヘルだな。ドイツ語の略【der Bund der Kommunisten(1847-50)。ロンドンに亡命していたドイツ人共産主義者を中心とする国際秘密結社。bundは連盟・盟約・結社などを指すドイツ語】。その系列から赤軍が出てくる。
A それはもうちょっと後ですね日本赤軍連合赤軍ともに1971年創設】
布野 民青は黄ヘル。全共闘は、最後にかぶったのは黒ヘル。僕も一回かぶっただけだけど、黄ヘルにボコボコにされた(笑)。だからねえ、あるんですよ、「屋根のシンボリズム」っていうやつは(笑)。
A 先生がいつも「屋根のシンボリズム」っていう原点はそれですか(笑)。
布野 68年6月20日の全学1日ストで、授業を受ける権利があると言ったら「スト破り」と言われたって話したでしょ。あのとき、止めた方の学生のなかには、大西隆【1948-/都市工学】がいた。今は豊橋技術科学大学の学長で、日本学術会議の会長(2011-)。あの人、緑ヘルだったね。緑はフロント統一社会主義同盟社会主義学生戦線/緑地に、白い文字で「フロント」のロゴ】。フロントはマイナーだったと思う。すぐ消えた印象がある。
 青は社青同日本社会主義青年同盟)といって、社会党の青年部だよね【正確には、青ヘルは反帝学評(革労協社青同解放派・全国反帝学生評議会連合)で、スカイブルーのヘルメットに白で「反帝学評」のロゴ】。これはね割と感性派だった。芸術系の学生が多かった。
 それから白がややこしくて、中核と革マルとあってね【白ヘルに「中核」のロゴが中核派革命的共産主義者同盟マルクス主義学生同盟・全国委員会派)、白ヘルに赤テープが革マル派革共同・マル学同・革命的マルクス主義派)】。この二つは新左翼の諸党派のなかでは大きい勢力で、今でもずっとあるよ。中核派の方が多かったかな。革マルは東大だと法学部とか文学部に拠点を持ってたんだけど。
A 中核派革マル派は僕が京大に入った時もしょっちゅうやってました。たまに授業行って教室から外を見下ろしたらヘルメットとゲバ棒の集団が衝突してて、機動隊が入ってくる。ただ、何だろうとは思ったけど、全然知ろうともしなかった。
布野 まとめていえば、新左翼は青・赤・白・緑。全共闘つまりノンセクトが黒。これらに対して民青が黄ヘル。運動を引っ張った上でチャンバラをしてるのは下部組織である全学連の民青系と、新左翼に目覚めた中核派とか色々の党派が自治会の場のヘゲモニー争いみたいなのをしていた。僕のクラスの感じでいくと68年は民青系しかいなかったからね、それで新左翼系の党派の存在感はなかった。まあたまに演説くらい来たかもしんないけれど。で、クラスの中で議論していて全共闘シンパが出てきた。それが7月以降の全学ストに参戦とか、秋の色々な事件とかあって、大きな流れになったと、そういう経緯ですよ。わかりやすく先走って言っておくと、収束局面になったとき、全共闘派でもなくて民青系でもなくて「クラス連合」みたいな変な流れが出てくる。収拾派ですね。もういい加減にして授業を再開して欲しい、卒業できないと就職できなくなる、という意識かな。建築学科に進学した時の情勢は、雛芥子は全共闘派、日共系もいたんだけどまああんまりいない、大半はクラス連合派だったかも。
A また戻って確認したいのですが、1年生のクラスは皆ほとんどノンポリだったと考えてよいですか。
布野 僕の感じだとそう。だけど、同窓会で昔話聞くと、「えっお前そんな意識持ってたの?」とか「えっ、お前そんなこと考えてたの!」みたいなことはある。でもまあノンポリだったと思う。
A 特定の党派に属するってことはほとんどなかったと。
布野 うん。でもまあ、雛芥子の枝松克己さんは中核派だった。重村力さんも中核シンパだったと思う。でも中核ったって、ピアノ弾く山下洋輔【1942-/ジャズピアニスト、作曲家、作家】とかも近いとこにいて、「DANCING古事記」っていうレコードがあってね、そのレコード盤を売ってて、俺も手伝わされた。
Y すごいタイトル(笑)。
布野 そんなんいっぱいあったよ。発禁とかね。
A どうも僕は理解していないようなのですが、今お話のあった新左翼系の色々な党派と、全共闘運動との関係は?
布野 全共闘と党派は別の論理で動いていた。もちろん、影響関係はあるよ。ただ、安田講堂に籠る時も、党派は意思決定機関に入れてない。党派党派で、たとえば中核は勝手に法学部にこもるとかね、空間的に棲み分けるというかたちをとった。
I つまり大学の占拠は、全体としては新左翼各党派も加わった形ではあったのだけど、意思決定も空間も別であったということですね。
布野 そう。


1969年1月    収束局面
A すでに安田講堂での最終的な局面の話に移りつつありますが、どのような経緯でそこに至るわけですか。
布野 全共闘と大学当局とが非和解的になってやがて執行部も焦ってきた。入試実施の問題が大きい。要するに自民党政府が脅かし出したわけ、管理不行届きだからもう入試やらせない、東大は潰すぞと。で、大学の執行部は焦って、収束させないとえらいことになると思った。これまでの運動の論理とは違う、そういう論理というか外圧がかかったわけだから、衝突は避けられない、最終局面になる。そういうことが全共闘側でもわかる。
 年が明けて、69年の1月10日に秩父宮ラグビー場の集会というのがあって、加藤代行からの「10項目の確認」という条件の確認書が提示された。全共闘は参加しなかったけれど、それから一部ではスト解除の決議がなされていった。
 そういう状況で、安田講堂に残るか出るかということになる。将来の大学のポストを失うかもしれない、卒業後の就職が無くなるかもしれない、そんなことを思いながら、僕は入りますよ、僕はやめますよ、という決断を迫られた。その時、組織原理として、山本義隆さんは全共闘組織をその後も温存するために安田講堂から出た。内田雄造さんは入った。鈴木博之さんは出た。
 この頃には、民青諸君は秩序派に立っていた。要するにこのまま東大が解体されちゃ困るということで、執行部と手打ちする。今言った「10項目の確認」の後、各学部でスト解除の決議が行われていくんだけど、民青諸君は、武装して実力で封鎖解除を始めた。その攻撃対象は同じ学生、全共闘派だったわけ。黄色ヘルの民青は強くてねえ。怖かったよ。とくに経済学部の民青は実に強力だった。それからクラス連合代表、つまり収束派も当然だけど「10項目の確認」を呑んだわけ。そうして孤立した全共闘安田講堂に立て籠もった連中が1月18日〜19日にかけて機動隊によって排除された。
 執行部としては、片付けたんだから入試をやらしてくれって言ったんだけど、当時の佐藤首相、坂田文部大臣そして自民党は、入試はやらせない、という結論になった。大学入試は、東大に決定権があったんだけどね。大学の自治は踏みにじられたわけだよね。この時に。
I 入学の時点では大河内一男【1905-84/経済学者】が総長だったわけですよね。
布野 そう、大河内一男。生産力理論で有名な。賞もらったり叙勲を受けたりしてる。しかし、身体の調子を悪くして、ちゃんと対応できなかった【68年11月1日辞任】。結局、総長は、若い、40歳代前半だった加藤一郎【1922-2008/法学者】が代行になる【11月4日就任】。彼は法学部長だったんだけど、翌年の収束局面では加藤さんが全面的に収拾に当たった。2年前の1月のNHKのクローズアップ現代で「東大紛争45周年」という特集やったけど、ブレーンだった教授が数人いて、座談会の記録を残している。坂本義和【1927-2014/政治学者】かな、最後まで機動隊導入は反対だったという。大学の自治が優先で、入試実施は大学の専権事項と主張したという。
A 最後は・・・
布野 1月の18日と19日かな。11月に創刊号が出た、東大全共闘の機関誌『進撃』の一面を見ていくだけで経緯はわかる。広告が懐かしくて面白いんだけど(笑)。羽仁五郎『都市の論理』(勁草書房、1968)とか、西川一郎訳『五月革命』(合同出版、1968)とか【著者は「3月22日運動」名】ポール・ニザンの著作集なんか、全部買って、まだ持ってる。あるよそこの本棚に。『進撃』創刊は何日って書いてある?
A 11月9日ですね。このときもう加藤代行ですね。
布野 もう変わってる。鈴木成文さんは助教授だったけど加藤代行のブレーンだった。
A あ、それ知らなかった! そうだったんですか。
布野 しゃべったよ、前に多分(笑)
A そうでしたっけ。当局側というのは知ってましたが、学長代行のブレーンだったとは。なるほど。それ知らないとあの漢詩の背景が分かりませんね漢詩「共闘移 猫奴/天昏地黒 共闘移/師驚友激 寝派随/青論七條 化土為/甲竿徒懸 吁悲可」(共闘移る ニャロメ作/天は昏く地は黒く 共闘移る/師は驚き友は激り 寝派は随う/青論七條は化して土と為る/甲竿徒らに懸かる 吁悲しむ可し)。鈴木成文先生自身は全共闘が使っていた便所に貼ってあったのを採集したと言っているが、鈴木作とも言われる。青井が神戸芸工大の助手[1995-2000]の頃、当時学科長だった鈴木先生が書いて下さったことがある】
布野 それで号外が出るはずなんだけどね。『進撃』のその号、日付は?
A 1月15日。
布野  1月15日。直前だね? この前に加藤代行の提案があって、安田講堂は4ページくらいの号外のはず。これが1月21日付だから陥落後の号だよね。全共闘側から言うと、入試を潰したわけだ。68年11月からの東大のことならこの『進撃』で動きはわかるよ。こういうのが日大も全部あったし、明治大学もあるし、早稲田もあった。
A たしか他大学のグループも本郷にいたんですよね。
布野 正門の左手に工学部の事務が入ってる工学部列品館があるでしょ、ここに籠ったのは明治大学の学生たちだったというのを後で知ったけど、向かいの建物から水平射撃をやられて、眼球が飛び出る重症を負わされた学生もいた【ガス銃は、催涙ガスを詰めたガス弾を用いるが、火薬を使った銃であり、水平射撃は危険なので禁止されていたが、機動隊は容赦しなかったといわれる。一号館では不退去の学生1名が逮捕されている。島泰三安田講堂1968-1969』中公新書、2005参照】。そういうふうに周辺を片付けてから、本丸の安田講堂に行った。


陥落後の顛末    圧縮された68-69年
布野 で、問題はそこからなんだ。僕なんかは、さっき言ったように、野次馬として10・21の国際反戦デーに行った。当時は頻繁に国労の諸君がストやって電車止めたから、わりと普通だったんだ、線路を歩くことなんかもね。1月18日のときも安田講堂の周りをぐるぐる回ってた。見に行った、完全に野次馬ですよ。でも、歴史的な現場にいるという高揚した感じはあった。ぐるぐる回っていたら、『週刊朝日』か『朝日ジャーナル』かの記者に取材されたんだ、喫茶店に連れ込まれて、まあ記事にはならなかったけど(笑)。
しかし、問題は解決していないんだから、その後もそんな簡単には収束しないわけですよ。駒場駒場で未だ立て籠もっていた、駒場全共闘が。69年の4月には授業が再開されて・・・うーん、忘れたなあ。記憶が飛んでる。最近わりと駒場に行くんだけど変わっちゃっててピンとこない、建て替わってるから。8号館だったかな。結局最後にそこも陥落して、春からは授業再開みたいになるんですよね【8号館が駒場全共闘の本拠地で、69年1月末に陥落した。加藤代行執行部は69年3月14日に退陣表明するが、加藤は3月23日の総長選挙で当選】。4月17日に雪降ったこと覚えてる。本郷で授業を受けてて・・・、うーん、ちょっと混乱してるなあ。とにかく授業再開ってことになったけど、2年間をすごい縮めてやらなきゃ。
A いえ、慌てなくても大丈夫ですよ。
布野 違う違う、休校してたんだから、遅れを取り戻すために時間を縮めてやったってこと、授業を(笑)
A あ、授業の話ですね(笑)。このインタビューのことかと。
布野 1年生の7月から授業やってないんだから(笑)。何かねえ、すごかったよ。冬休みに夏休みがあって・・みたいな感じでズレていってさ、僕の卒業は72年4月30日付なんだけど、上の学年は71年6月30日なんだよね。卒業の日付が。僕ら下の学年は入試がないから留年生しかいない、上の学年は2ヶ月遅れ、僕らは1ヶ月遅れ。たぶんそんな例は他にはないんじゃない。
A そうでしょうね。
布野 僕なぜか助手になったのも5月1日付けだし、講師になったのも5月1日付けだから、大学に書類出すと事務に訂正されるのよ、履歴書が(笑)。それにこの1ヶ月のせいで給料いくら損したか(笑)。
A つまり学部は4年と1ヶ月で卒業ってことですか?
布野 うん。何ヶ月か遊んでたからね。6月からストライキだし。
A で、2年生からもう建築の勉強はじまるんでしたっけ?
布野 東大の仕組みだと入学から1年半分の成績でアプライするわけ。そこまでで取った単位と成績でもって順位がついて、それで建築なら建築の応募者の順序で決まってく。最近、東大の建築学科は定員割れしてるみたいだけど。
A つまり通常のルールでいくと、1年半経ったところでの成績で見て、3年から建築学科の授業ですか。
布野 いや、2年の後期からもう専門の授業が一部始まる。それで僕は丹下さんのアーバンデザインという科目を駒場で聞いてる。
I 教養の学生が駒場にいるから、丹下さんが駒場に来たってことですか。
布野 そう、2年の後期分は専門の先生が来てやってくれるのが何科目かあった。あっ、そのビラとか機関誌とか、日付順に並べてみますか。
A それはいいですね。
O あ、クラス名簿が出てきました。
布野 素晴らしい! こいつらだ。そうそう日比谷高校出身とかね。
A この名簿、同窓会に持ってかないといけませんね。
布野 おお、そうだね。この小蒲ってのがね、つい最近6月まで東大の教授だった。一番仲よかったけどね。この倉本ってのがさっき出てきた物理学会元会長。あ、コレ、俺ガリ版刷りで雑誌みたいなの作ってたんだ。『fin』という映画批評誌。それと、あっ、青井先生これ。「日本の社会体制における東大の地位及び東大生としての自分の地位」。
A おおっ、スゴそう。これ何か活字になった原稿ですか。
布野 バカ、するわけないだろ(笑)。これ授業のレポートの下書きなんだから。
A ええっ、レポートなんですか?
布野 何のレポートかっていうとねえ、構造力学(笑)。
A 本当ですか!?
布野 それ書けって。梅村魁先生が。
A ええっ。課題を無視して、勝手なこと書いたんでしょ。
布野 違うよ課題なの。真面目な。まあこんな感じだった。試験はあったんだけど7割はレポート。構造力学でも。梅村先生はすごい特別な先生だったと思うけど。僕は建築行ってからお酒にむちゃ付き合わされた。武藤清、梅村魁、青山博之という系譜。それで、僕は結構というかかなり成績よかったんだよ。振り分けのとき順位が送られてくるんだよ。だって7割方はこの手のレポートだったんだからね。
A つまり、68年の4〜5月にちょっとだけ授業があって、その後はその年度は全くなくって・・・。
布野 3月までない。
A それで2年目、69年4月には授業は再開されて、それからの半年で、1年生と2年生の前期くらいの、計1年半分やるとか、そういう感じだったわけですか。
布野 うん、そう。
I 冬休みに夏休みがあったとか、そういうふうにズレ込んだと。
布野 全然ズレてる。だから、大学ってのはいい加減なもんなんだなってのが原点にある。今の方が異常かもしれない。
I 卒業が4月末だったってことは、3年生とか4年生が始まるのも4月じゃなかったってことですか?
布野 正確に振り返らないと分からないけど、進学したのはズレてた。縮めるために休みを削ってた。だから駒場の時に・・・色々あんだよね。そうそう、三島由紀夫がくるんですよ。全共闘公開討論会に。あれは68年だったかな。さっき雪降ったって言ったでしょ、その日に自決のニュースを聞いて呆然と雪見てたような気がする。
I 三島由紀夫の自決は1970年11月25日ですね。
布野 じゃあ違う。公開討論会は68年だと思うけどなあ。
I 東大教養学部全共闘主催の討論会ってのは1969年5月13日ですね。
布野 ああ、そしたら駒場はもう1年頑張ったってことだ。三島の討論会は900番講堂でね、司会やったのが小阪修平【1947-2007/評論家】、だいぶ前に死んじゃったけど、一冊彼の編集する本に書いたことある【「廃墟とバラック小坂修平編(1987)『地平としての時間』作品社】


閉じる集団、分裂の先鋭化
A ちょっと今日の話の範囲を超えますが・・・、赤軍などは、全共闘運動が終息しても、それでも収まらなかった人々が過激化していったものですか。
布野 いや違う。そうじゃなくって、60年安保をきっかけに新左翼が出て、新左翼がアンチ日共系で運動を展開して、お互いにゲバをやりだすでしょ。その後もそういう内ゲバによる分裂と過激化が進む。つまり集団が運動のなかで理論を先鋭化させると必ず衝突する、そういうかたちで赤軍が出てくる。理論というのは革命戦略ですよ。要するに、日本をどういう風に革命していくかが問題。赤軍派は、世界同時革命をうたった。中枢には理論家がいて、理論闘争があった。
 僕が建築入った後にわかった話だけど、二つくらい上に枝松克己さんがいて、雛芥子の仲間になるんだけど、獄中立候補ですよ、自治会の会長選挙に。すっげえ過激だなって思った。でも付き合いだしたらすごく優しい。今でもコンサルやってますけどね【株式会社メッツ研究所】
 だからノンポリが目覚めて、赤軍に行ったってのとはちょっとちがう。
A たしかに赤軍新左翼のブントから出てくる、というお話がさきほどもありましたね。新左翼諸党派は全共闘とは基本的に別であって、赤軍などは新左翼の党派のなかの分裂っていうことですね。
布野 分裂の先鋭化ね。でもね、僕なんかでもそういうところに参加してもおかしくない状況にあった。事実、建築学科に入った後で通っていた本郷の正門前のラーメン屋でバイトしてた女の子が連合赤軍に行って殺されて埋められていたとか、三里塚の応援に行ったら昨日一緒に喋ってたヤツが翌日首吊ったとか、そういうことが僕の周りで起こった。要するに集団が閉じていくと、お互いの存在を抹殺してしまうところまで行きつく力学が働くというのは、身に染みてわかる。赤軍に行ったのでいうと、都市工に川島宏さん【当時大学院2年生】がいたんだから割と身近だった。それこそよど号ハイジャック事件(1970.3.31)とかテルアビブ空港乱射事件(1972.5.30)とか。テルアビブで生還した岡本は英雄になったんだけど安田安之は、後から知ったけど京大の建築で、三菱重工の重役の息子だった【テルアビブで乱射事件を起こしたのは、日本赤軍幹部の奥平剛士(当時27歳、京大工学部出身)と、京都大学工学部建築学科の学生・安田安之(当時25歳)、鹿児島大学農学部の学生・岡本公三(当時25歳)の3名】
A 京大の西部講堂っていう木造のお寺みたいな建物の瓦屋根に、三つ星が描かれてて・・・
布野 そうそう星が三つ(笑)。
A ええ、赤軍の彼らがテルアビブで星になったんだというような伝説は聞かされました【1972年8月16日、大文字の送り火の夜に、京大農学部グラウンドで「三里塚空港粉砕」をスローガンにした「幻野祭」が行われた。このとき美大生によるシュールレアリズム風のデザインとして三ツ星の模様が描かれたが、日本共産党がそれを見てテルアビブの三人の兵士だと指摘。生還した岡本公三が裁判で「われわれ3人は、死んでオリオンの3つ星になろうと考えていた」と陳述した事を参照する指摘らしい。幻野祭では実際に奥平剛士と安田安之の追悼集会が西部構内で実施された】
布野 いまのIS【ISILとも】に巻き込まれるみたいな感じかもしれないね。とにかく集団が閉じると、議論を突き詰めると、そうなるよっていうことは僕は学んだ、閉じてるといい加減なごまかしもする場合もあるけど、先鋭化すると相手を抹殺する所に行きつく。
A なるほど。色々な意味で布野先生の原点が1968-69年にあることがわかってきました。そろそろ時間ですので今日はここまでとさせてください。ありがとうございました。