連続インタビュー 02 1968-69年 補遺/1970-72 雛芥子の胎動

日時:2016年6月20日(月)14:00〜16:00
場所:布野修司先生宅(小平市上水本町)
聞手:青井哲人(A)、西川直子(N)、石榑督和(I)、門間翔大(M)、弓削多宏貴(Y)
公開:2017年6月7日
図版:布野修司先生提供

A 前回【連続インタビュー01 1968-69年:東大入学と全共闘運動への共振 参照】は1968-69年の大学の状況を中心にお話をいただきました。全共闘運動の構図や推移と、そのなかで東大に入ったばかりの1年生の状況や受け止め方などがかなり分かってきました。このあたりのお話はその後に話を進めていくうえでも基盤になってくると思うのですが、現在のわたしたちからすればわかりにくい点も多々あります。そこで今回は、重複を厭わず、前回の復習編としてもう少し理解を深めておきたい点を確認しながら、建築学科に入ってからの時期、雛芥子の初期へと話を進めていけたらと思っています。


教養学部駒場)スト突入
A まず、駒場がストに入って授業がなくなる時期がちょっとはっきりしないのですが。先生は6月から授業がなくなるとおっしゃっていましたが、スト突入は7月ですよね。
布野 6月20日がすごく記憶に残ってる。全学一日ストをやるんです。全学部じゃなかったかもしれない、9学部一日ストかな。医学部の闘争委が安田講堂を占拠したのが6月15日で17日に執行部は機動隊を入れた。駒場のキャンパスもタテ看が立ち並んで、ビラが配られて騒然とした感じはあったけど、スト決議に同意した記憶はない。「機動隊導入反対」は当然だと思ったけどね【小熊英二(2009)『1968 上 若者たちの叛乱とその背景 下 叛乱の終焉とその遺産』(新曜社)をみると、18日に緊急代議員大会が開かれ、19日にスト決議が行われている。「駒場有権者約6000人のうち5077人が投票した」というけど、その事実は記憶にない。代議員による決定だったと思う】。前回、「授業受ける権利がある!」と誰かがいったら「スト破り」と言われた、っていう話をしたでしょう、それが6月20日。日記もその日からつけだしてる。
A 重要な日ですね、6月20日。その後、7月5日に全共闘結成、翌6日から駒場、つまり教養学部が無期限ストに入る。そう書いてある資料があったんですが・・・。
布野 7月5日。同日だと思うけど?島泰三安田講堂1968-1969』(中公新書、2005年)の、著者は僕の3つくらい上だけど、巻末年表では7月5日に「東大闘争全学共闘会議結成、教養学部無期限スト開始」とある。それに、『東大紛争の記録』(東京大学新聞研究所・東大紛争文書研究会、1969年1月)の年表も7月5日としているけど。
A わかりました。


情報の伝達
A 次に情報がどう伝達されていたか、というようなことについて少し。まず高校生の頃に、東大や早稲田なんかの状況は一応分かっていたというのは、新聞やテレビですか。
布野 テレビですね。羽田、佐世保三里塚、王子と続いてるんだけど、佐藤東南アジア歴訪(訪ヴェトナム)阻止の「第一次羽田闘争」(67年10月8日)は、京大生(山崎博昭)が死んでるし、大ニュースだった。でも強烈だったのは、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争(1968年1月)かな。入試直前だったし。
A なるほど。じゃあ映像を含めてイメージがあったわけですね。それで入学した後の運動の状況は、クラスに民青の先輩がいて、その人たちがクラスで演説ぶつのを聞いていて分かった、という感じですか。

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図01 タテ看
布野 それもあるけど、当時の基本的なメディアはタテ看[図01]とガリ版刷りのビラ。
A タテ看とガリ版についてもう少し。
布野 タテ看は、看板にまずは糊付けして紙貼る。文字の色が決まってた。墨汁と朱で書くのは全共闘。青と赤は民青。全共闘のタテ看の方が重厚で、民青の看板は軽い感じがしたなあ。杉本【杉本俊多 1950- / 建築史家】はタテ看の名手だった。きれいな字を書くんだ。迫力あった。漫画研究会だったんだけど最後は部長やった。だから、絵も上手で、さらさらっとイラストも描いた。雛芥子のポスターも杉本が描いたし、ガリも切った。「ガリを切る」ってわかる?【謄写版のロウ紙に鉄筆で文字を書き版をつくる作業】ガリ版とタテ看が我々の情報伝達メディアだった。「明日デモ行くぞ」というと、「お前まずタテ看書け」となった。
A 全共闘も、民青も、新左翼セクトも、みな同じような感じだったということですか。
布野 大学当局もそう。告示も、ビラとか新聞みたいな刷り物が貼りだされたり、門のところに置いてあった。それ以外は集会やクラス会での直接的コミュニ―ケーション。確かに、SNSが一般化した現在では想像できないだろうねえ。コミュニケーションは肉声だし、直接的だった、手書きだしね。
A はあー、当局のビラもあるんですか。そういったいくつかの基本メディアがあって、学生さんは誰でも、たとえ政治的なことに関心がない人でも、当然およそのことは知っているっていう状態なわけですね。
布野 そう。もちろん、新聞や週刊誌の報道もあるよ。東大闘争というと社会的事件だからニュースとしての報道があった。


最後の学生服世代
布野 前回の後、いくつか資料が出てきた、僕が受けた東大の試験問題とか、あと僕が合格したときの合格発表の看板の写真。どっかに布野修司の名前があるはず。
A えっ、名前が出るんですか。
布野 受験番号だね。合格掲示板に貼りだされる。受験番号は6588・・・ほら。ってわかんないか。これクラスの写真。前回、倉本【倉本義夫/1949-/物理学者】だけが学生服着てなかったって言ったけど、もう1人学生服着てない。2人いたんだ[図02,03]。
A 2人ともシャツにカーディガンですね。
布野 みんなすぐに学生服は着なくなったね。翌年は入試なかったし、全国の大学で学生服が無くなっていった。
N これは入学式の写真ですか?
布野 いや、入学式じゃなくて、その1日か2日後に撮ったクラス写真だと思う。
A 「43S15B」ですね。
布野 みんな偉くなってる。これが俺かな。
A なんか若くないなあ(笑)。今とあんま変わらないですね。
布野 むかしから老けてるっていわれたけど。やっぱりそうか。

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図02 入学式の安田講堂
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図03 入学式の記念撮影(43S15B)

全学連とブント
A じゃ、次いきますね。「全学連」、全日本学生自治会総連合についてなんですが。
布野 全国の大学自治会の連合体。いまは大学自治会なんてほとんど無くなっちゃってるのかな。大学の自治、学部の自治、そして学生の自治とかいう理念のもとに自治会は組織されてきた。前史は1950年代前半に遡るというか、敗戦後、全国の旧制高校や大学で自治会や生徒会をつくる運動が活発化したんだよね【全学連全日本学生自治会総連合)の結成は1948年9月】。「学園民主化」運動は日本共産党の動きと連動する。共産党にとって全学連リクルートの場でもあるわけ、将来の党員、活動家の。黒川紀章なんか全学連に関わってると思う。NAUの解体から「建研連」【建築研究者団体連合】へという建築運動の流れの中で、学生の代表をモスクワかどこかに送るということがあったと思う。
僕が入学したころの東大の教養学部自治会は民青が多数派を占めてた。一般の学生は、自治会活動なんてあまりやりたくない、遊びたいわけだから、全国の国立大学の自治会はだいたい民青が多数派を占めていたと思う。しかし、68年以降、自治会のイニシアチブを全共闘シンパが握って行くことになる。
A ほんとに初歩的な確認なんですが、民青が自治会を組織したわけではなく、自治会という組織の代議員を選ぶシステムのなかで、民青の勢力がそれを取っていった、ということでよいわけですね。そういうことで全学連、つまり全国的にみても民青の勢力が強かったと考えていいですか。
布野 正確に把握してるわけじゃないけど、そうだったと思う。60年安保の時の全学連委員長はそれこそ香山【香山壽夫/1937-/建築家】さんのお兄さん【香山健一/1933-1997/政治学者】だよね。それ以前に分裂している。
A そこのところで確認したいのですが、60年安保以降の「全学連主流派」はブントを中心とする新左翼です。つまり新左翼側が全学連主流派と呼ばれていて、旧共産党組織は全学連ではむしろ「非主流派」と呼ばれるようになっている。だけど68年の東大ではまだ民青が強くて、半ば自動的に執行部を取れていたというのが、よく分からないのです。
布野 我がクラスはそうだったよ。入った時は。
A 60年から70年までの間にいろんな分裂や勢力交代があるんだけど、東大の布野先生のクラスでは、68年4月の段階では民青が代議員8席全部を取っていた。それが翌年には全共闘側に逆転する。

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図04 学生諸君への提案(加藤一郎学長代行、1968年12月2日)
布野 翌年というよりもう秋口だよ。クラス決議をして代議員を自治会の議決会議に送るわけだけどね。11月かな、大河内総長がやめて加藤総長代行になる[図04]。事態収拾にかかるんだけど、全共闘は応じない。大学執行部は入試が気になりだす。自民党政府も、全国に拡大していく学生叛乱を抑えるために大学にプレッシャーをかけだす。一般学生も卒業、就職が気になりだす。クラス連合という仲介組織ができるんだよね。民青は完全に秩序維持に走って、封鎖解除のために武装化していった。黄色ヘルをかぶって。すごい強いんだよ、民青のゲバは。駒場は踏ん張ってたけど、全共闘は軟弱だったね。12月末から1月にかけては、夜間にゲバが繰り返される状況になっていく。1月10日の秩父宮ラグビー場で執行部と手打ちする。
A 封鎖の解除というのは大変なはずですよね、籠城を解くというのは。
布野 それをやっておいて、「暴力反対!」とか言う、民青は。彼らはこのままだと東大は潰れるかもしれない、政府(文部省)にやられるかもしれない、と思ったんだと思う。
A どうしてそういう立場になったんでしょう。民青が秩序派になったのは、代々木(共産党中央)からの指示もあったんでしょうか。
布野 当然ある。共産党サイドから見れば新左翼は「トロツキスト」。
A 共産党からは、新左翼全共闘を潰せっていう指示があったと?
布野 そう、プチブル急進主義、極左冒険主義は、大衆の支持を得られないというのが「六全協」以後の基本。
A 共産党は、50年前前半の武力闘争路線で失った大衆の支持を、55年の六全協以後はどうやって回復・維持するか、という感じになっていましたからね。あと民青が「強い」というのは、やっぱり組織としての訓練がなされているから?
布野 全国から精鋭が集められたんだよ。
A 精鋭ですか。
布野 とにかく強かった。
A ちょっと戻ってもう一度確認ですが、全学連では新左翼、とくにブントが主流派を握っていたけど、それぞれの大学や学年によっても色々だったと考えればよいですか。
布野 全学連主流派といっても、中核、革マル、ブント、社青同とかいろいろあって、主導権争いしているし、それぞれ拠点の大学とか学部があった。党派の連中はむしろ、エンプラ闘争【佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】とかベトナム反戦運動とか、政治闘争に主軸があって、学生の自治会を戦術的に組織化するというようなセンスはあんまりなかったんじゃないかな。全共闘運動が盛り上がって、それをどう自派に取り込むかをめぐって競うんだよね。
A なるほど。
布野 政治活動というか、政治戦線が前線でしょう、革命が目的なんだから。
N ブントの主張はどういうことだったんですか。
布野 どこかに書いてあると思うけど、スローガン的には「大衆的な革命党の結成とプロレタリア独裁の実現」「マルクス・レーニン主義の革命的伝統の堅持」、要するに、一国革命主義で、世界革命を放棄した共産党は駄目ということでしょう。全共闘運動の収束過程で、世界同時革命をうたう赤軍派が結成されることになるんだよね。各派の路線の違いは当時あんまりわかってなかった。中核派の北小路敏(1933-2010)【『歴史選択としての七〇年闘争』(自由国民社、1969年)】とか革マル黒田寛一(1927-2006)【『ヘーゲルマルクス−技術論と史的唯物論序説』(理論社、1952年)、『経済学と弁証法』(人生社、1956年)、『社会観の探求−マルクス主義哲学の基礎』(理論社、1956年)他多数】とか、理論的支柱の名前は知っていたけど、理論の違いを比較するなんて気はなかった。むしろ、社青同というのは美術系の大学が多くて感覚派だとか、革マルは都会派で口は達者だけどカラダはハラない、街頭には出ないとか、そんな区分けをしてたよ。マルクスは読み始めたよ。いろいろ読んだけど、『資本論』の1章で挫折した口かな。
A ブントという言葉自体は、ドイツ工作連盟の ”Deutscher Werkbund” の ”bund” と同じで、連名とか組合とかの意味ですね。


コミンフォルム批判と新左翼
A ちょっと六全協以前に遡りたいのですが、1950年に「コミンフォルム批判」がありますね。ソヴィエト共産党が、日本共産党を名指しで批判したという。日本共産党アメリカを解放軍と見ていたし、その前提のうえで平和革命(資本主義的な市民社会から共産主義革命へ)をするのだという立場だったけど、ソヴィエトはそのことを批判して、アメリカ帝国主義への従属を拒否して日本民族の独立のために武装して闘え、また民族の伝統や歴史も積極的にキャンペーンせよ、と言ってきた。その時にゴタゴタがあって、所感派と国際派に分裂するとかいろいろあるんだけど、すぐに合流し直して、あらためて武闘派路線にいく。すると大衆の支持が離れていき、55年に六全協武装闘争路線が放棄される。「うたごえ運動」みたいな文化路線に切り替えるんだけど、すると若い奴らは共産党は軟弱で許せんとなる。そうして前衛党派として最初に登場するのがブントですね。
布野 コミンフォルムの批判というのは、朝鮮戦争が勃発して、東西対立がクリティカルになるなかで、アメリカの日本支配が固まるのはまずい、というんで武装蜂起を指令するわけでしょう。日本共産党としてはGHQをバックにした民主化路線に乗りながら次の段階で革命に至るという「二段階革命論」を採ろうとしてきたわけだから、日本には日本の事情があると「所感」を送った。それが「所感派」。しかし、中国共産党から厳しく批判される。コミンフォルムが言う通り武装路線を採ろうとしたのが「国際派」。しかし、ややこしいのは「所感派」が主導権を握ったこと。
A その辺は正直なところあまり良くわからないです。
布野 ぼくも実際はよくわからないけど、平良【平良敬一/1926-/建築ジャーナリスト】さんとか田尻【田尻裕彦/たじりひろよし/1931-/編集者】さんは、国際派なのかな。平良さんは、分裂はよくないと主張して「国際派」分裂派として除名されたという。
A それは平良さんから以前にうかがったことがあります。
布野 堤って西武百貨店の社長だった、知ってる?
I 堤康次郎【1889-1964/西武グループ創業者】ですか。
布野 息子の堤清二堤清二/1927-2013/文筆家・詩人】、国土計画の堤義明の兄貴なんだけど、詩人というか文学者であって、田尻さんと一緒の派だって聞いたことがある。
A コミンフォルム批判に対して日本共産党の反論があって、それに従ったのが「所感派」。さらに中国共産党日本共産党を批判してきて、こうしたソヴィエトや中国の批判を受け入れるべきとしたのが「国際派」。ところが所感派の方が「批判」を受け入れたり、執行部が中国にわたって日本共産党を暗然とコントロールしたり、武力闘争路線をとったり・・・という感じで、この分裂は複雑というか捻じれていますね。そういうアタフタも、若い人たちが離れていく原因のひとつだったようですね。
布野 結局、コミンフォルムは「所感派」も路線転換するということを見越して「所感派」を支持するんだけど、「所感派」の幹部は、全面受け入れを表明した後、地下に潜ってしまう。山村工作隊は、建築の学生も参加するんだけど、所感派と国際派の分裂を背景に、中国共産党の、農村から都会を包囲するという、武装闘争のモデルに従ったものだよね。
A とにかく50年のコミンフォルム批判、55年の六全協という流れを背景として、58年にブントが結成され、つづけて次々に新左翼諸党派が現れる。ブントって世界発の共産党からの独立左翼なのだとか。そういうわけで、60年安保の頃にはブントがかなり力を持っていて、全学連では「主流派」はブントだという認識であったことが知られているので、68年の東大1年生で代議員をすべて民青が取っていたという事実【東大は、ほとんどの自治会は民青が掌握し、行動が制約されていた(小熊英二(2009))】を、どう捉えたらいいのか・・・というのがさきほどからの僕の疑問の主旨でした。
布野 結局、「六全協」(1955年)で、日本共産党武装闘争路線を放棄するわけでしょう。1953年に北京で死亡していた徳田球一書記長が全て悪いというかたちにした。それを不満として結成されたのがブントなわけで、全学連の主流派になっていく。そして迎えたのが60年安保。その帰趨の問題でしょう。1958年に結成された第一次ブントは1960年安保の直後に分裂解体する。東大細胞にいたのが青木昌彦とか西部遭。全学連は、その後停滞期に入るわけで、一方で内ゲバが始まる【全学連第17回大会(1961年7月)は乱闘になったという】。第二次ブントが再建されるのは1966年だから、民青がその間、各大学で勢力を伸ばしたんだと思う。僕の感じで行くと他のクラスも似たようなものだったと思う【東大教養学部共産党細胞は1959年2月に分裂、ブントが主導権を握る。選挙に不正があったとされるが、共産党候補を破って委員長に当選したのが西部遭(1959年11月)。学生の9割は安保反対であったとされるが、全学連主流派を多くの学生が支持していたわけではない。民青系全学連は1964年に結成されている】。少なくとも理科一類に関しては。他は知らないけど、文学部は革マルが強かった。
A なるほど。たしかに先生がさっきおっしゃったようにブントは民青のように学生を組織することにはあまり関心がないわけですよね。彼らが掲げている理念のために政治的実践を戦うっていうことがあるわけなので、大学の組織化はまあどうでもよかったのかな。
布野 どうでもよくはないだろうけど・・・。彼らは先駆性論というか、アヴァンギャルドを自認して、先駆性を競った。しかし、彼らの想像を超えた運動が起こったということなんだよね。
I クラスとかで選ばれて自治会に入らなければ、全学連にいかないということなんですよね、システム上。ということはそれなりに底辺のクラスの単位が民青だとしたら、どうして全学連主流派をブントが取れるのか・・・。
布野 全学連と各大学の自治会はレヴェルが違うよね。各大学の自治会が各地で連合をつくって、さらに全国の学生自治会連合会が組織されている。ここで、ブントが多数派になることはありうるよね。前回話したけど、雛芥子の仲間のなかでも枝松さん【枝松克己/1948-/株式会社メッツ研究所代表取締役】は、立候補してるんだよ、東大駒場自治会長選挙に。中核派から獄中立候補した。ノンポリの連中が多数を占めれる状況じゃなかった。民青のほうがよっぽど組織的だし、わざわざ留年してまでオルグするわけだから、東大の場合はそういう仕組みで票を持ってた。


東大全共闘の問い
A 先生の周囲の学生たちは圧倒的多数がノンポリだったということですが、「ノンポリ」とは基本的には党派(セクト)に所属しない、という理解でよいですよね。
布野 ノンポリというのは文字通り非政治的ということだけど、圧倒的多数の一般学生はノンポリだった。その中で、アクティブに活動する学生たちに対して、ノンポリ・ラジカルとノンセクト・ラジカルという言葉の両方が使われ始めるんだけど、最終的にノンセクト・ラディカルが使われるようになる。ただ、総じていうと全共闘は政治活動には向かわなかった。
A それで、全共闘新左翼党派とは別だった。つまり全共闘というのは基本的にはノンセクトで、運動に目覚めたノンポリ学生たちなのですよね。
布野 そう。全共闘で実際に活動したのは2割いないと思う。2割動けば革命が起こると思った(笑)。全共闘シンパはもう少しいたと思うけどね。
A 民青とか、あるいは新左翼党派の連中なら、対米従属批判とか、民族独立とか、日本国家独占資本主義反対とか、アメリカ帝国主義反対とか、反戦とか色々激しく議論していたと思うんですけど、全共闘というのは大学の体制が争点であって、そういう左翼的な政治論議は全然してないんですか?
布野 いや、そんなことはない。基本的にはベトナム戦争反対だし、反米反帝。
A その辺が、この前よくわからなかったんですよ。基本的には大学の硬直化した古い体制へのプロテストというか・・・。
布野 もちろんそれが大きかった。学問とは何か、その存立根拠はという基本的問いがあった。日常的に出会う教授たちが、「何のために研究してるんですか」「何のために大学にいますか」とか聞かれるとオタオタするんだからね。それと、高度成長を通して公害問題などのネガティブな問題が噴出するなかで、「産学協同」の研究や人事への不信感が大きい。実に素朴な問いだよね。それはあらゆる分野に共通だった。
A 学の専門性に根ざした自律性、主体性、あるいは社会との関係。
布野 それについてみんな、とくに東大生がエリートぶってていいのか?という「自己否定」論があった。なかなか理解されなかったけれど、それがベースにあったと思う。前回の話でいうと本当に都市工の大学院生が教授に勝っちゃうわけ。ディベートで。それはベトナム戦争反対かどうかっていう話じゃない。お前はどこで何をしてきて何を教えようとしているのかという基本的問い。その場合は公害問題だったんだけど、それについて大学院生のほうが圧倒的に情報を集めてよく勉強してたし、下手な学会とかシンポジウムとかよりずっと真面目な議論だった。それに答えられなくなって教授が辞めちゃう。
A 都市工の話は68年ですか?
布野 いや、もうちょっと後。僕が本郷行ってからの話。
A 山本義隆さんの本を読んでも、近代日本の学問、彼の場合は物理学ですけど、それが明治以降の近代国家の要請とともにどう進んできて、今どういうところに来ているのか、戦争とはどうリンクしていてきたか、今もどうリンクしているか、そういう問いが一貫してあったことは分かります。
布野 義隆さんと僕は10歳違う。だけど山本さんの本読んで、60年安保、大管法闘争からずーっと問題は繋がってたと思ったな。ただ、当時そういう歴史的な課題についての問題意識があって運動に接近したんじゃなくって、むしろ大学院のドクタークラスとか、助手クラスに感化された。「助手共闘」は先鋭だった。僕の先生は助手だった松川淳子さんですね。毎晩みんなでレクチャー受けたんだよね。
A それは3年生になってからですね。
布野 そう、2年生の後半、建築に進んでから。
Y 小熊英二(2009)は、東大闘争の特徴として一番根本にあるのは、東大の都市工学部が成田空港の計画とか、四日市市の都市計画とかをやったということにあるといってます。
布野 成田はそうかな?
A 現場ではあまりそういう意識ではなかった?
布野 成田空港の設計に誰かが関わっていたという話は知らない【小熊英二(2009)が引いてるけど、川島(宏)さんが成田の都市設計の下働きをしたというのは知らなかった。成田空港施設の設計は日建設計】。成田とか四日市は都市工の話だよね。筑波学園都市計画については、吉武さん【吉武泰水/1916-2003/建築学者・建築家・東京大学名誉教授】自身がディープに関わっていた。安田講堂に残って逮捕されることになる内田雄造さん【1942-2011/都市計画家】は多少手伝ったのかな。内田さんは1961年入学。都市工ができるのは1962年だけど、建築学科の先生が関わったと思う。1974年に、吉武さんは、57歳で東大を辞めて筑波大学に副学長として行くんだ。最後の晩餐みたいのがあって、我々が「なんで筑波にいくんだ(逃げるんだ)」っていったら、筑波の学園都市計画に関わって責任取らざるを得なくなったという。かなり議論したんだ。東大闘争で嫌気がさしたような感じもあった。学生たちはわれわれをどうしてくれるんだ、という気分もあったのかなあ、複雑だった。僕は修士2年だったんだけど、とにかく落とし子になった。


産学協同の何が問題だったのか
A 話を戻させてください。というのは、ちょっとまだ「産学協同」が問題だというのが腑に落ちていないのですが。
Y さきほどの小熊英二(2009)『1968』によれば、東大闘争の特徴のひとつは、それが助手と院生が主導した点にあると。
布野 助手、院生が主導したというのはそうだと思う。専門、学問を問うのが根底にあった。東大全共闘が非和解的に自爆したのはその通りだと思う。他の大学のモデルにはならなかったのもその通りだと思う。永久革命だよね、だから、僕らにとっては、建築を選択した時に闘争は始まる、ということは、僕らも理解してたよ。だから、青井先生が「産学協同」が問題だというのが腑に落ちない、というのが面白いというか、時代の流れを感じるね。今は大学は「産学協同」をやれっ!ていうんだから。産学協同批判というのは、結局、学問が政府や産業界のための学問すなわち御用学問、研究が企業の下請けになっている、それでいいのか、ということでしょう。もう少し、具体的には、研究室で仕事を請負って金儲けしてるだけじゃないか、大学院生や学生は研究という名のもとに下働きをさせられているんじゃないか、という不満があった。助手、院生が主導したというのは、東大に特異だったといってもいいけど、産学協同の研究室体制(講座制、教授絶対権力制)の問題を身近に肌身に染みて理解してたわけだよね。大学の自治、学問の自由というのはどこへ行った?という批判ですね。もうひとつ並行するのが「象牙の塔」批判だよね。自分の趣味や興味のみで研究や学問していいの?何のための学問なの?研究は何の役に立つの?という追求があった。これは今でも同じ問題でしょう。ただ、問いのヴェクトルが逆転してる。だから「腑に落ちない」?
 僕が具体的な問題として最初に考えさせられたのは東大「北病棟問題」だった[図05]。後で話すけど、さっきの吉武先生の筑波大学への異動に関する資料があるよ。ヴェネツィア・ヴィエンナーレの時に中谷礼仁さんが持って行った資料だけど。結構厳しいよ。

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図05 北病棟移転阻止闘争の中間総括
A 読みますね。「▷吉武泰水教授、筑波大学副学長内定」の報は、建築学科内は言うに及ばず、全学に対して大きな衝撃を与えている。とりわけ、「内定」に至るまでの計画が秘密裏であったことが、氏に対する重大な疑惑を生んでいる。我々は次のような諸点についてとりあえず緊急に問題を指摘する。・・・▶東大闘争とりわけて北病棟闘争において、吉武教授は研究者、特に建築計画研究者としての姿勢の困難性と計画自身の限界について明白に把握したはずである。「筑波」に深く関係し、しかも今、彼の地へ逃亡するに際し、吉武教授はいかなる総括をこの問題に下すのか。」(この資料は図05とは異なる)。なるほど。いわゆる計画するってことをどう捉えるかっていうことについて不明確だと。
布野 計画の限界についていかに考えるか?これ丸山茂さんの字かなあ?
A えっと・・・「腑に落ちない」と言ったのは、ひとつにはそれが反戦・反米などの政治意識と関係あるのか、という点でした。もちろん山本義隆さんのように物理学と軍事の問題は密接ですけど。都市計画や建築計画だと違ってきますね。でも共有されていたのは、体制がどんどん大きな論理で動いていってしまうときに、自律的に学としての主体性のありかを問い直せ、という主張であったわけですね。
 それと、もうひとつは、大学は何のためにあるのかとか、産学協同批判っていうのはまだ1年〜生2年生の頃はあんまり関係ない、あるいはわかんないって感じだと思うのですがどうですか。

布野 1年生と2年生ではちょっとちがうと思う。大学生活を一年経験しているわけだから。
A それでも専門に入ってみないとそこは実感持ちにくいだろうなと思います。他方で、全国から大学に入ってきた1年生の学生さんはほとんどノンポリで、政治的な議論に切実なコミットをする感じでもない・・・
布野 いや、わからない。東京出身の学生はませてるって言ったけど、高校生の時から問題意識の高い学生はいたよ。奥浩平、山崎博昭なんてそうでしょう。
A でもまあ、ノンポリ、いわゆるセクトに所属してない人の方が多いですよね?
布野 もちろん、一般学生はノンポリだよね。
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図06 『進撃』誌(東大全共闘機関紙)と『都市の論理』の広告
A ・・・というようなことを全部まとめて想像してみて、1968年の1年生は、いったい何を実感したのか、それがだんだん見えてくると同時に、何となくやっぱり分からない、という感じでもある。当時の1年生、あるいは布野先生は、結局、何を感じたのか。僕が今日前半で確かめておきたいのは基本的にこの一点です。たとえば、1年生でも秋口くらいになるともう10.21国際反戦デーとか、いろいろなことを経験していくし、ませてるやつが色々いるし、そういうやつらから刺激を受けながら、多くのノンポリ学生さんたちも全共闘シンパにだんだん傾いていくというお話でしたけど、それはいったい何が背中を押していたのか。煎じ詰めれば、やはり主体性への問いが、布野先生たちに強く訴える力を持っていたのでしょうか。
布野 僕の経験が全体を説明するとは思ってないよ、それぞれの1968年がある。全く、何も考えなかったと思える連中も少なくないよ。それと、出自、生まれ育った背景で違うのははっきりしている。入学以前に政治家になろうと思っていた鳩山邦夫は、2年生だったけど、全然違う対応だった。それと1968年の一年あるいは半年で目覚める!といったことでは必ずしもないと思う。僕ら団塊の世代の親たちは戦争を経験している。戦争は嫌だ!というのは基本にあったと思う。60年安保の時、僕は11歳だったけど「アンポハンタイ」といってデモごっこしてた、そんな世代だよ。親父は市役所で組合やっていて社会党支持だったけど、自民党政権に対する違和感は最初からあったんだと思う。しかし、世界は一体どういう仕組みでなり立っているのか、その中でお前は誰なの?ということを否応なく考えさせられたってことはある。政治状況に刺激を受けたことは間違いないけどね。
 『朝日ジャーナル』っていう週刊誌があって、全共闘シンパ的な記事をずっと書き続けた。応援媒体のようだった。左手に『朝日ジャーナル』、右手に『少年マガジン』と言われた時代。大学生のほとんどが漫画読んでた。大人は眉を顰めたけどね。それと必読書のような本があった。羽仁五郎の『都市の論理』(勁草書房 1968 のち講談社文庫)[図06]とかH・ルフェーブルの『パリコミューン』(岩波書店、1967年)とか、みんな読んだ。美濃部都知事美濃部亮吉/1904-1984/経済学者・政治学者】が誕生したのが67年。 革新都政と言われた。京都でも蜷川知事【蜷川虎三/1884-1981/政治家・経済学者】、京都と東京で革新系知事が誕生した。ようやく日本にも市民社会が実現するというのが『都市の論理』。世界同時革命っていう路線じゃなくて、もうちょっとモデレートなあり方の自治体が具体化される。『都市の論理』って、だいぶ後に読み返したら、すごい杜撰な本だけど、みんな読んだ、市民社会を実現するんだって。

収束局面
A 次に「収束局面」での学生さんたちの状況を少し確認させてください。収束局面では民青と、全共闘シンパと、もうひとつクラス連合という、秩序回復というか授業ができる大学に戻せというグループもいたということですが。
布野 僕なんかは田舎者だったから、一生懸命考えて「全共闘の方に造反有理がある」って思ったわけだけど、そういう派じゃなくて、そろそろ授業再開しないと就職にも差し支えるとか、我々どうなるんだろうとか、入試がなくなって東大が潰れては困ると思った、それがクラス連合だった。
A 感覚的にその3者の割合ってどんな感じでした?
布野 建築学科に進んだ60人をみるとね、だいたい3分の1、3分の1、3分の1だけど、民青はやや少なかったかな。
A クラス連合、つまりノンポリノンポリみたいのも、それなりにいたんですね。
布野 リーダーが出て、真剣に仲裁しようとする部分もあったけれど、全体としては収束派に収斂する動きだったと思う。
A クラス連合というくらいだから、組織されてるんですね。
布野 わずかのクラスだけだと声にならないから連合しようということでしょう。『東大紛争の記録』は、1969年1月15日に出てるでしょ。これ、クラス連合的な立場の連中がまとめてると思うよ。総括してもうお終い、というんだよね。安田攻防戦は想定していない。
A なるほど。
布野 だからわれわれはこの本はあまり評価してない。ただ、それなりにビラや情報集めてる。ということはこの間の動きは把握していたんだよね。しかし、もう1月15日に出てる。決戦の前。その前に、もう見えたっていうことでしょう。
A 全共闘はさすがにこんなのつくってる余裕はない。

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図07 内田雄造追悼文集(2012)
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図08 『建築戦線』(建築反戦青年委員会)
布野 本体、核の部隊は潰されちゃったというか、覚悟して安田講堂に入った。捕まって、刑務所入れられるわけだから。建築の分野でいうと内田雄造さんなんかは覚悟して安田講堂に残った。内田雄造さんは最初から最後まで都市計画家としてあるいは建築家として東大闘争を戦ったわけで、生き方として実に明快[図07,08]。先走るかもしれないけど、巣鴨プリズンに入って、今のサンシャインが建ってるところが巣鴨プリズンだった、出てきたときに東洋大の平山先生が助手で採用する。平山先生は反対だったらしいけど、東洋大の建築教室は内田さんを受け入れようとした。僕は内田さんに東洋大に呼ばれるんだよね。
A 平山先生というのは?
布野 平山嵩【1903-1986/建築環境工学】先生のこと。建築設備、環境工学の大家ですよ。
A 戦時中の、まだ計画原論といっていた頃の文章は読んだことあります。
布野 東大名誉教授で熱環境の大家。吉武先生の一回り上の世代で岸田日出刀の助教授から教授になった。高度成長期に入って、工学系の学部学科が増設されていくなかで東洋大学に工学部が出来て建築学科もできた。既に工学部がある大学には、第2学科ができた時代ですね。東工大も候補だったらしいけど、東大が勝って、東洋大の建築は平山先生をトップに東大閥で作った。僕が呼ばれた時には、原(広司)さんは東大に呼び戻された後だったけど錚々たるスタッフだったよ。
 安田講堂の籠城組に対して、山本義隆さんなんかは温存されたわけ。運動の持続のために。だから後退局面をどう戦うというのは全共闘の中ではそれなりの議論があったんだと思う。69年の9月に逮捕されるのかな。その後、建築学科で匿ってたこともあるよ。僕ら管理してた部屋でね。ある時期。いろんなことがあった。


前期試験(1969年5月のレポート課題)と駒場
布野 第1回のインタビューのあとに、69年の5月に出題されたレポートの一覧表が出てきた、一学期の[図09,10]。68年4月入学の前期分と2年生の前期分、一学期と三学期。みんなそれ書いてまず半期、1年前期分の単位を取った。だから一年近く遅れたことになる。それで授業再開みたいな形になったわけです。

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図09 1969年5月17日付 レポート問題集
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図10 同


A これは面白い資料ですね。色々な課題がある。
I 前回話題に出た「日本の社会体制における東大の地位および東大生としての自分の地位」はコレですね[図11]。
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図11 布野修司のレポート草稿
布野 たぶん「優」を取ったと思う。きっと優等生的に答えたんだと思う。
A こうやって一覧表にしてまとめて出題されるんですね。
布野 学年で前期後期を選択して取る科目があるじゃない、法学とか経済学とか。このレポート問題集はみんな手書きでしょう。「ヨーロッパにおける観念論の歴史」とか「カントにおける自由」とか。こんなん楽勝じゃないか、何かを写して書けばいいんだから、と思った学生もいたと思うよ。いまでいうとコピペかな。亀井俊介【1932-/比較文学アメリカ文学】先生の、僕は習ったけど、これすごいよね。「英語のあり方について」だって。
A 「大学教養課程の英語のあり方について」とか。これって授業がどうあるべきかってことですね。教育が。
N 直接先生の自宅に送れってことですね。大学が機能してないから?
布野 そう、だってまだ籠もってたもん。第8本館とか。
A だから郵送先として先生の住所とかが書いてあるわけだ。
布野 「自分は東大紛争をどう考えるか」とかここにもある。平井啓之【ひらいひろゆき/1921-92/フランス文学者】。有名だよね、フランス語。芳賀徹【1931-/比較文学】なんかもいる。まあとにかく、69年5月にレポート出して、たぶん6月あたりに、1年生の二学期に入ってるわけですよ。そんなふうだから、夏休みをどうしたかとか、ちょっと覚えてない。夏休みはたぶんほとんどなかったんじゃないかな。そうやってズレていって、卒業は72年の4月末になった。1学年上は71年6月末。
 71年の後半くらいには三里塚の鉄塔のガセットプレートの原寸図を松川淳子さんの下で引いてるんですよ[図12,13]。その1年くらい前【70年10月】に進学してる、本郷へ。駒場では色々あったけど、だんだん正常化に向かっていった。活動家は活動してたけど。雛芥子の活動が本格的に開始されるのは本郷に行ってから。

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図12 三里塚の鉄塔
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図13 同ガセットプレート図面


A 授業は普通にやっているけど、校舎の一部にはまだ占拠を続けた人がいたわけですよね?
布野 第8本館の封鎖は続いてた。こないだ駒場へ行ったんだけど、なんかキャンパス変わっててピンと来なかった。えらいきれいになってて。駒場教養学部)が一番最後まで突っ張ったんだ。全学が正常化していくんだけど、燻ってたところはある。他方で全国の大学に火が拡がっていった。それから高校まで火がついた。高校生がデモやりだしたり、ずっと71年、72年くらいまでは。
A そうすると69年以降は入学の時から意識がある人が増えていそうですね。
布野 反戦運動に参加する高校生はいた。ベ平連ベトナムに平和を!市民連合】のデモに参加するとか、それから三里塚があった。羽田空港建設の閣議決定が67年、反対運動は、竣工する72年が山場になっていく。
最終局面で鉄塔建てた。「建築」の出番がくる。応援に来る学生たちの宿舎が要る。京大の建築からも来てたよ。団結小屋といったんだけど、民家の移築もやった。当時、建築の学生は三里塚に行くという流れがあったと思う。それでいろいろデモがあって、その辺もちゃんと資料引っ張り出さないといけないと思うけどね。全共闘派は黒ヘルをかぶり出すんですよ。最後の段階で、ちゃんと戦うぞということで武装するというか、まあプレゼンテーションだけどね。
A 黒ヘルは三里塚いく時もかぶってたんですか?
布野 かぶるわけない。僕はいっぺんだけ被ったことがある。本郷の構内で人数足りないからって言って、黒ヘル渡された。かぶった瞬間にボコボコにされたんだ、黄色ヘル(民青)に!
N 黄色に?
布野 そう、なんでデモしたのかよく覚えてないんだけど。


建築を選ぶ
A 本郷に通い始めるのは何年何月からですか?
布野 それがよく覚えてないんだな・・。さっきいったみたいにズレにズレてるから。70年の後半じゃないかなあ【1970年10月】。
A 入学時に入った目黒の「基学寮」からは引っ越しますよね。
布野 引っ越した。下高井戸の内田祥哉先生の近くにあった賄い付きの下宿。本郷行く前、基学寮は1年しかいなかったと思う。それで下高井戸も1年ぐらい。本郷行ってから、江古田に移ってる。
I 下高井戸のときは駒場の時だけってことですか?
布野 そう。下高井戸から本郷は遠い。
A クラスから建築に入った人いますか?
布野 僕入れて3人かな。1人は清水建設(関西)に入った。京大にいた時に再会して奢ってもらったことがある。京大医学部病院の現場とか、時計台の免震構造をやってた。福井出身で、結婚式には出たよ、43S15Bの連中と一緒に。それからもう1人は帰国子女だった。三菱支所に入って、今は、社員1万人のビルの掃除とかビル管理をやる会社の社長やってる。同窓会(43S15B)で最近会うけど、今度、海外で会社立ち上げるといってた。あとは土木に行ったのが3人くらいいた。そのうち1人は大成建設に入った。下北沢住んでてね、今は、奥さんに不動産会社やらせて儲けてるといってた。布野必要なら物件紹介しようかっていうんだ。
N 建築のクラスは何人ですか?
布野 60人かな。
A その頃、こういうタイプの人が建築に進むっていうような傾向みたいなのはありました?
布野 進学に必要な点数は高かった。1970年に大阪万博が開かれることが決まっていたし、高度成長期だからね。今みたいに定員割れしてるのはとんでもない事態だね。
A 一番人気は?
布野 一番人気は理物かな?あの頃は土木と原子力は下の方。土木はもうそろそろ翳りがあった。あくまで印象だからね。実際は調べてみないとわからない。
A 原子力や土木があまり人気ない、というのは学園紛争の影響もありますか。
布野 あった。建築も「悪者」というイメージはあったと思う、かなり。高度成長に乗ってガンガン建てて、儲けるっていうのはよろしくないっていう雰囲気だよね。「土建国家」というのは批判的な言葉でしょう。僕もそれなりに悩んだけど、世の中どうせ力学だし、泥臭い。東大闘争見てても、執行部も無責任だ。僕はおじいちゃんも大工だったし、親父も松江市役所で建築関係だったからね。工業高校出て住友鉱業に入った。大阪の住友本社で試験受けてる。新居浜に赴任した。病気したり、ロクに勤めないうちに応召されて満州に行た。終戦後、工業高校の先生に紹介されて、出雲に戻って松江市役所に入った。2004年に死んだけど、かなり詳しい自分史残してる。
I 建築迷われた時は、他考えたのは・・・
布野 僕レポート書くのうまかったんだ。要領がいいんだろうねえ、すごく成績良かったよ。だからどこでも行けたんだよ。法学部でも医学部でも。だからちょっとは迷ったね。
A なるほど、一定のライン以上の成績とると越境できちゃうのか。
布野 そう、だけど実態はレポートだからね。
A それで迷ったのはどこですか?
布野 理物かな。だからその倉本も理物だし、5人くらいクラスから理物行った。
A 理学部の物理学科に行くのはできるヤツなんですね?
布野 そう、できるヤツがいく。「建築」選んでよかったとは思う。だけど、最近、死ぬときに「建築選んで失敗したなあ」と思って死ぬのはやだな、と思う。色々建築界の問題があるでしょう。新国立劇場問題とか、杭打ち問題とか、豊洲の問題とか、ほとんど変わっていない。建築界の体質は。悪くなってるかもね。
A 最近ぼくが「建築終わってる」なんていうと、先生に「そんなこと言うな」って言われる。「俺の方が建築愛してる」とか言って。
布野 愛してはいるよ。建築は楽しいもん。まあ、建築界が劣化してるのは確かだけどね。
A 話を戻しますが、あの頃、建築はいくぶん社会悪と見られていた節があると。
布野 とにかくスクラップ・アンド・ビルド、建てては壊すのはよくない、建築公害だ、実際建物は粗大ごみになる。伝統的な街並みを消してしまう、学生がデザインサーヴェイに夢中になったのは危機感の裏返しでしょう、そこら中掘り返して遺跡も破壊するし、日本列島全部開発して自然破壊していくのは大問題。よく知られてるんだけど、前川(国男)先生が、今一番えらい建築家はつくらないやつだって発言したんだから(JIAの機関紙『建築家』)。とにかく、建築することは悪だ、そういう気分があった。でも、建築というのは基本的にそういう行為だよね。「傷つけて癒す」(「親自然工法とは,傷つけて癒す」,『楓』,1998年1月)という文章を書いたことがあるんだけど、建築の夢だけ追うんではなくて、その出発点で、建築は悪いことをすることもあると自覚するのは大事なことだよね。『建築ジャーナル』で連載の企画(「進撃の建築家」2016年10月号〜)があるんだけど、東大闘争の時代に、いくつかありうべき建築のイメージを僕らは持った。バリケードはそのひとつ。絶対壊れないト−チカとか、絶対人命を保護する建築。考えてみれば、城塞建築はもともとそうだ。それからテント劇場みたいに、風のようにきてパッとやって何事かパフォーマンスやって消えるみたいな建築もひとつ。あとは三里塚の鉄塔みたいに、何々に抗議する建築。


建築メディア
I その頃、駒場から本郷に行って、建築に進もうという頃、建築のメディアは読まれてたんですか?
布野 ひとつは『都市住宅』が68年創刊でしょう。平良さんが企画提案して、植田実【1935-/編集者】さんが編集長。でもまだ建築学科に行くと決めてないから、創刊号の印象はない。創刊号には黒澤隆【1941-2014/建築家】とか元倉眞琴【1946-/建築家】とか載ってるんだけど、後から見た。『建築評論』[図14]っていう雑誌知ってる?

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図14 『建築評論』誌
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図15 『デザイン批評』誌
A 何冊か持ってます。
布野 関西系で、渡辺豊和さん【1938-/建築家】がやってたよね。
A ですね。職能問題とか、建築家をめぐる法の問題とか、結構熱く議論していますね。
布野 あの渋谷のなんとか書店に置いてあった。
I 大盛堂書店ですね。
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図16 『アートシアター』誌
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図17 『fin』誌
布野 あと『デザイン批評』[図15]ってのも、あった。どっちかというと、映画ばっかり見てたから、映画監督になりたいなとぼんやり思ってた[図16]。『Fin』(1970年6月)[図17]という映画雑誌というか冊子つくったよ。ガリ版刷りの。1号雑誌に終わったけど。あとは『新建築』なら親父が全部買って持ってたから中学くらいから見てたよ。
N 東大入る時は建築とか全然考えてなかったんですか?
布野 全然何も考えてない。
N じゃあなんで東大に?
布野 高校の時にお前どうする?東大入れるよ!とか言われて選んだという程度。東大の場合は学科を決めなくていいということもあったし。
N でも理系ではあった?
布野 そう。国語は苦手だった。20代で原稿書くようになって、これでも随分鍛えられたんだよ。『産経新聞』とか、朝日選書なんかではギッタギッタに直された。
A 戻りますが、建築に進もうという時点では、『都市住宅』も『建築文化』もあんまり見ていないのですね。
布野 そうだね。もちろん建築入ってからは読むわけだけど。『建築評論』は、置いてあったバックナンバーは全部買った。長谷川堯さんは『近代建築』に書いていた。あと『美術手帖』があって、磯崎さんが「建築の解体」を連載してる。
A あれも68年ですもんね。
布野 磯崎、長谷川は、建築を選んでから、後から読んだんだよ。


駒場で建築の授業開始
A で、建築の授業は2年生の秋だかいつだかはっきりしないけど始まってはいて、駒場で受けた。
布野 進学決まってから、駒場で半期ある。三学期までやって、進路が決まる。1年生、2年生の前期、後期、前期、後期で一、二、三、四となってて一、二、三の成績で振り分けられて進学する。四からはもう学部学科の授業を受ける。四までは駒場。建築選んでから半年分は駒場で受けた【70年4月〜10月】。
A この学期ってのは、そういう風に数えるんですか。
布野 そう。
I 2回生の前期は三学期ってことですよね。
A 1年生の今でいう春学期が第一学期。それから第二学期、第三学期、第四学期って進んでいくわけだ。
I で、第四学期の時に建築の授業が始まる。
A 布野先生たちの場合は駒場のスケジュールは混乱して、全部レポートだったけど、建築に進んでからは正常化して、試験も一応あると。
布野 あったと思う。でも試験を受けた記憶はないなあ。
A 2年生の少なくとも第四学期は始まったときにはもう振り分けが決まっているわけなので、これが同じ建築のメンツだってのはもうわかっているわけですね。で、その時に三宅理一さん【1948-/建築史家】とかにはもう会っているわけですね。
布野 会ってる。一緒にデモに行ったりしてる。
A 逆に、一年生の冬の収束局面までの流れのなかでは三宅さんとかには全然会ってないわけですね。
布野 会ってない。枝松さんは有名人だったから、え!建築で一緒なの!っていう感じで出会った。
A 2年生の最後の第四学期のところで、建築のヤツらと色々出会って、一番印象的だったのは三宅さん?
布野 あと久米大二郎といって新宿高校出身で三菱地所に入った、二人が格好良かった。杉本と僕ぐらいが地方出身の田舎モンだった。千葉は西校だし。戸部栄一も戸山高校だったかな。授業は、図学は工学部全学科で必修だった。すごい密度でカリキュラムの中に入ってる。理科一類には、図学の先生がいっぱいいた。機械製図もあるし。図学は樋口清先生【1918-/建築家】に習った。図学教室には広部達也【1932-/『デザインの図学』(文化出版局、1985)】、横山正【1939-/建築史家/『透視画法の眼 ルネサンス・イタリアと日本の空間』相模書房、1977、『数寄屋逍遥 茶室と庭の古典案内』彰国社 1996】と野口徹【1941-1987/建築史家/『中世京都の町屋』(東京大学出版会、1988)『日本近世の都市と建築』(法政大学出版局、1992)】がいた。野口徹先生は、紫色のビロード風の、ベッチンって言ったんだけど、ラッパズボン穿いてた。町家について論文書いて、日本の集落調査でティポロジアを先導するんだけど、センス悪いの穿いてるなあって思った。まさか何年後かに対談【鼎談 稲垣栄三・野口徹・布野修司「近世の遺構を通してみる中世の居住に関する研究」『研究所だより』創刊準備号、住宅普及会、1985年3月】するとは思ってもなかったけどね。生田勉先生もいたけど、習わなかった。最初の設計の手ほどきはそのグループに教えてもらった。木造建築の実測とか、パースの書き方とか、水彩の色のつけ方とか、イロハはね。吉武研の助手だった下山(真司)さんが広部さんのところに顔を出していたのを覚えている。基本的にF.L.ライトだったね。ライトの作品のコピーをさせられた。遠藤楽【えんどうらく/1927-2003/建築家】っていう遠藤新【えんどうあらた/1889-1951/建築家】の息子さんも非常勤で来てた。事務所に三宅くんと一緒に行った記憶がある。
 講義についてはよく覚えているのは3人。2年の秋はまだ、本郷から駒場に講義にしに来るんですよ。ひとつは丹下健三のアーバンデザイン。最初の2回だけ来てあとは渡辺定夫先生【1932-/都市計画家】の代講だった。八束はじめさんとの対談【「都市と建築からみるアジア ―グローバル化と現代」Web版『建築討論』02号, 2014年】で比べたことがあるんだけど、彼は入学が1年早いから、授業内容が違うんだよね。僕の時は、さすがに東大闘争があったから、丹下さんはロストウ理論【ウォルト・ロストウの経済発展理論】でほとんど経済理論だったね。バーッと黒板に曲線を描いて、高度経済をゆるくしてこれからソフトランディングが出来るかどうか。君たちは不幸です、80年代のあと建築はダメになりますみたいにいってた。えーっ、僕ら新入生にそういうこというかと思った。でもまあ大体当たってたわけだけど。いま青井先生も学生にそういうこと言ってるんでしょ。
A 人口減るし、市場縮小するしとか(笑)。でも問題系が変わっていく状況はある意味面白いはずとも言ってます。
布野 丹下さんの2回目は八束さんのときと同じで、広場論だった。広場のスケールとか。もちろん有名人なのはわかってたし、すごい印象的ではあった。
A 先生は丹下のロストウ理論を聞いているんですね。
布野 そう。八束さんは聞いていないといってた。もうひとつ強烈なのが吉武先生の建築計画の講義。「建築計画1」(?)とか。やっぱり全部はやらなかったような気がするけど、鈴木成文さんが続けたのかな。強烈だったのは、いきなり「北病棟問題」をしゃべるわけ、建築のケの字も知らない新入生に対して。ノートが出てくりゃいいけど、ノートとってなかったかもしれない。太田博太郎先生の建築史のノートとかはあるんだけど。それはともかく、東大闘争もちょうど医学部から始まってるでしょ。並行して北病棟の増築で11階建てを建てる、ということがあって、それを吉武研究室が色々と提案して設計をした。一番強烈だったのが普通はワンフロア=ワンナースユニットっていって一看護単位、看護詰所は1階には一つ設けるという原則だったんだけど、吉武案ではツーフロア=ワンナースユニットにした。すると看護婦さんは1階と2階をもつ、3階と4階を持つことになる。看護婦さんが怒った。「労働強化」につながるっていうわけ。当時はもう大変だった、「ニッパチ」っていって月に8日の夜勤かな、そういう過酷な体制がもっとキツくなるということですね。それで座り込みをやられた、そういう話をして、君たちはどう思うかって問うわけ。計画するっていうのはそういうことですよと。あれは強烈だった。
 3人目が梅村魁先生。構造力学なんか全然やらずに無駄話ばかりで、え、こんなんでいいの?みたいな。それだけ覚えてる。あとは環境工学を斎藤さん【斎藤平蔵】にならった。まあ授業があってみんな出たと思うけど。一方では自主ゼミがもう身に付いてるでしょ。先生たちだって怪しいもんだっていう気分もあったわけだし。オタオタするところだって見てたからね。


自主ゼミ、そして「雛芥子」結成へ
A 三宅理一さんたちとの自主ゼミのことも少し教えてください。
布野 駒場で始めたと思う。三宅さんと久米大二郎だったと思うけど、千葉だったかなあ、とにかく読書会やろう、ということになった。とにかく早く勉強したいとみんな思ってた。自主ゼミは43S15Bでもやったしね。最初に読んだのは原広司の『建築に何が可能か』(学芸書林、1967年)。
A それが最初なんですか。
布野 そう。原さんの本は難しかった、という記憶がある。後で読み返したら、すらすら理解できたけどね。それからメルロ=ポンティの『知覚の現象学』【Phénoménologie de la Perception, 1945/竹内芳郎・小木貞孝共訳『知覚の現象学1』みすず書房 1967)】は本郷行ってから読んだ。製図室でゼミやったことは覚えてる。
A メルロ=ポンティ、僕も学生のとき読みました。
布野 メルロ=ポンティの『知覚の現象学』は難しいんだよな。一回で何ページも進まなかった。本郷行ってからは多彩になってくんだけど、駒場の時はまだ東大闘争の渦中、本郷に入って建築に即して考え始めた。建築に目覚めたということかなあ。安田講堂前に機動隊入れて、水平撃ちなんかやられて、重症負ったのも何人もいるし。
A 水平撃ち?
布野 催涙弾
A ああ、催涙弾ですね。あれってたしか水平撃ちは禁止されていたってのを読んだ記憶ありますけど、それを破って打ってきたと。
布野 戦争だから、現場ではルールなんかないってことかな。戦争ごっこだったんだけどね。
A で、布野先生は建築に入ってようやく目覚めたという感じだけど、三宅さんや久米さんはもう以前からませていた。
布野 と思う。だから先導できたんだよ。マイク握って、デモ行くぞーっとアジってた。
A まだ本郷じゃないけど、建築の配属が決まってるから、その建築のクラスのなかで。
布野 「建築共闘会議」、略して「建共闘」っていう。三年生、四年生とか上級生が駒場までオルグに来て、アジられた。
A 全共闘オルグはするんですね。
布野 もちろん、運動の仲間を増やす、主張を理解してもらうのは基本だよ。一番強烈というか熱心だったのは永野さん【永野和邦/ながのかずくに】かなあ。後にラウム計画設計研究所を立ち上げた。あと、少し後だけど、腰が据わってると思ったのは三木哲【1943-/建築家】さん。横浜国立大学出身で大学院生だった。後には、マンションのリノベーションを先駆的に始める。その辺はみんな大学からはじき出されちゃった。
A はじき出された?
布野 そうそう、大学を辞めざるをえなくなった。
A 1年上の先輩たち。
布野 長野さんは、学年は2つ上だったかな。建築史の太田(博太郎)研究室だった。しかし、進学してきた連中が「雛芥子」を名乗って、芝居やったり、映画会やったり、なんか変なことやりだしたんでびっくりしたんだと思う。あいつら何考えてんだって。
A 雛芥子が始まったのは正確にはいつですか?

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図18 「蚕囚季」ビラ
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図19 「柩欠季」ビラ

布野 えっと、このビラはね、「蚕囚季」[図18]っていって、陥落から3年目(三周忌)のイベントだから、72年6月。それでこっちは「柩欠季(吸血鬼)」[図19]。これは10月、ドイツ文化研究所から表現主義の映画を、借りてきて、全部見た。
A これも72年ですか。
布野 そうだね、72年の秋だね。
A 68/71って書いてありますが。
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図20 『同時代演劇』誌
布野 それは黒テントの名前。「68/71黒テント」が正式名称。『同時代演劇』には一期、二期がある[図20]。1972年の11月20日講演。安田講堂前でやった。写真がある[図21-23,25]。
N 教室だったんだ。
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図21 黒テント(1972年11月20日
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図22 同
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図23 同
布野 これは、並行して映画会を工学部一号館の15番教室、階段教室でやった。
A 学部2年生の秋に出会ってすぐに雛芥子を名乗ったってことはないですか?
布野 いやM1の時だね。「蚕囚季」の方は6月24日、建築学科の製図室でやった。翌日は「飛べないアヒル」のコンサート。麿赤児【本名:大逈義英1940-/劇作家・作家・演出家・俳優】って知ってる?唐十郎のところで俳優してた。赤テントにいた。この話を聞きつけて、黒テントの方からアプローチがあったんだ。
A 赤テントにいて、1972年に大駱駝艦(だいらくだかん)を結成した。2年生の秋、丹下さんの話を聞いたり、吉武さんの話を聞いたりした頃には、雛芥子はまだないですよね?
布野 雛芥子ってね、要するに雑誌に書くときに名前つけたんだよ、『TAU』に書くとき。
A では、名前はなくとも、実質的な集まりは学部2年の秋にできつつあったと思えばいいですね。
布野 そう。発表するときにどういう名前にするかって、一人で書くっていうより、集団で書くって感じだったから、ペンネームというか。
A じゃあ『建築に何が可能か』とか『知覚の現象学』とかを読み始めたのが始まりだと考えればよいですか?
布野 そうね。運動体として名前をつけて打って出るっていうような感じじゃなくて、原稿の著者集団のペンネームとして名前をつけた。兄貴分がいて、「コンペイトウ」とか「遺留品研究所」とかが。それは『都市住宅』を舞台に五つとか六つとか上の世代がなんか変なことやってるなっていうことがあって、真似して名前をつけた。俺たちはまだ「雛」だけど「芥子」つまり毒だぞって。
I この72年6月の「蚕囚季」のビラには「本郷ひなげし団」とありますよ。
布野 そうだねえ。ひらがなだね。この頃、「武蔵野たんぽぽ団」ってのがあった。音楽グループだったかな。ちょうどアグネスチャンの「ひなげしの花」ってのが、流行りかけてた。これでいこう、っていう感じだったのかも。あんまり悩んでつけたわけではない。
I でも名前は本郷行ってからってことですよね。
布野 名前をつけたのは本郷行ってからだと思う。「大駱駝艦」の俳優は、北方舞踏派と言ってね。知らない? 土方巽【1928-1986/舞踏家・振付家・演出家・俳優】が教祖でその下で学んだ連中だった。ビショップ山田とか、覚えてる。
A ホッポウってなんですか?
布野 北方。やったのは金粉ショウなんだけどね。裸になって踊る、そういう演技。
A 金粉ショウってウィキペディアにあるよ。いろんなところでやられてたらしい。
布野 今でもあるのかな、キャバレーとか。当時「暗黒舞踏」とも言った。
A 結局、雛芥子を名乗ったのはいつですかね?
美智子 大学院入ってから?
A どうやら、ひらがなのときと漢字のときがあったみたいですよ。
美智子 漢字だったと思うけど・・・あ、本当だ。字がわからなかったのかしら(笑)[図18]。
A 「本郷ひなげし団」とか、まだちょっとアドホックというか、確立してない感がありますね。それがM1の6月。
I うわ、『TAU』が出てきた。
布野 お、出てるね、「柩欠季報告」。「72年柩欠季」とあるから、やっぱりM1だなあ。これほんと無茶苦茶な雑誌だよね。72年の12月に1号が出てる。これ報告っていうだけ。ここのページの耳だけに書いてんだよ。これ忘れてた。これ何かのときに松山さん【松山巌/1945-/小説家、評論家】と、井出さん【井出健/1945-】さんが、いいじゃん、こいつらに書かしてやろうよっていって、書いたんだ。
I このときには漢字の雛芥子になってたってことですね。
布野 そうだね。あとこれ。表現主義映画の批評。「ベルリン・広場・モンタージュ」(『TAU』04,商店建築社,197304)。すごい頁数書いてるな。この後に『同時代演劇』に書き出す。グループ雛芥子で。劇場については(「祭師たちの都市戦略,劇場街〈渋谷〉批判,『同時代演劇』1,マルス,197306」)僕が書いた。「燃え上がる都市―未来派の叛乱」(『同時代演劇』2,マルス,197309)はだいたい三宅が書いた。これ試験問題に出た【これは記憶違い。「実験劇場と観客への回路,イタリア式の閉ざされた箱とエンプティ−スペ−ス」(『芸術倶楽部』,フィルムア−ト社,197309)を後に『都市と劇場・・・都市計画という幻想』布野修司建築論集Ⅱ(彰国社,1998年)に収録。それが某大学の現代国語の入試問題に使用された。】。変な先生が読んでるんだよ(笑)とにかく、73年以降は原稿リストがあるから。68、69、70、71、72年の5年分くらいを復元すればいいかな。
A そういうことですね。了解しました。

  全員でビラや雑誌を見比べてアレコレ検討  

A いまのところ、71年(4年生)夏に三里塚で幻野祭。次に72年(M1)の6月、「蚕囚季」のときは「本郷ひなげし団」。あと安田講堂前の「本郷ひなげし団」名の黒テントは72年11月。でも同じ72年10月14日開幕映画イベント「柩欠季」のときは「雛芥子」で、同じ年の『TAU』12月号にそのレポートを書いたときも「雛芥子」。

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図24 雛芥子の面々
布野 安田講堂の時は逃げまくったね。時計台から主催者出てこい、主催者出てこいって言ってきた。みんなバレてたけど、近くの喫茶店で様子見て、黒テントの奴らは知らん顔して設営しろって。
I ビラに外線(電話番号)書いちゃってますよ。
布野 みんなバレてる。建築の先生もみんな見に来たんだから。
N 芝居を?
布野 芝居。M1の時は暴れまくってた、というか遊んでた[図24]。
A 笑 では今回はここまでとしましょう。ありがとうございました。

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図25 黒テント(1972年11月20日

連続インタビュー 01 1968-69年:東大入学と全共闘運動への共振

日時:2016年5月21日(土)14:00〜16:00
場所:布野修司先生宅(小平市上水本町)
聞手:青井哲人(A)・石榑督和(I)・弓削多宏貴(Y)・大谷剛(O)
公開:2016年7月30日

A 今日は第1回ですので、1968年4月に先生が東大に入学されてから1〜2年くらいを中心に、詳しくお話をうかがいたいと思います。雛芥子【ひなげし/1971-/三宅理一・杉本俊多・布野修司らのグループ】の活動などは次回にして、まずは大学に入った頃の状況を知りたいんですね。いわゆる学園紛争の状況を、学生時代の布野先生や、同期の学生たち、先輩、教員たちがそれぞれどう捉え、何を考え、どう身を処したか。それが建築にどのように関わってくるのか、こないのか。
布野 学園闘争が建築に関わらないということはありえないと思う。僕の場合、決定的に影響を受けて、その上で建築を選択したわけだけどね。
A ですよね。だけど、建築分野ではたとえば全共闘運動と建築的な潮流や運動との関係を正面から指摘したり論じたりするのはかなり稀で、同時代的に分からないヤツには分かりようがない、という感じがこれまで続いてきたようにも思います。だからこのインタビューは重要だと思うんですけどね。とにかく、今日はそういうわけで1968年・69年の2年間くらいの状況と、それが先生の目にどのように映っていたかをお話いただけたらと思っています。
布野 ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展【第14回「In the Real World: 現実のはなし〜日本建築の倉から〜」(2014年)】のために中谷礼仁先生たちがここに「家探し」に来たんだよ。その時に捨てずにとってあった当時のビラとか色々引っ張り出したんだけど、暇になったら整理することがあるかなあと思って、まとめておいたんだ。今度青井先生たちが来ると言うんで、ちょっと見てみたら大学1年生の時の日記があったんだよ。記憶も何もなくてビックリしたんだけど、(I)がS43.11.5〜S.45.4.30となっていて(II)が続いてS.46の5.5まであるかな。その後、もう一冊あって、71.8.1から72.05.15まである。だけど、飛び飛びで、日記というより、メモというか、今でいえば、なんか呟いている感じかな。別にレポート用紙に書いたのがあって、これは1968年06.20, 06.27, 06. 29と09.27がある。
A なんて書いてあるんですか、日記の表紙。
布野 「襤褸屑の詩」。今でもずっとこのタイトルで日記書いてる。らんるとも読む。『襤褸の旗』足尾鉱毒事件を告発した政治家・田中正造の半生を描いた作品】という吉村公三郎の映画が封切られたのは1974年だけどね。
A そうなんですね。知りませんでした。
布野 最近は旅行行ったときしか書かなくなってたけど、還暦以来またはじめて、毎日メモしてる。人に読ますもんじゃないけど。
A ああこれ何かの引用ですか。
布野 ああ、これは歌詞。えーっと、ザ・フォーク・クルセダーズ。「青年は荒野をめざす」の一節かな?「悲しくてやりきれない」かな【「帰ってきたヨッパライ」(1968年)はオリコン初のミリオンヒット】
A 笑
布野 読めばそのとき何考えてたか思い出すかな。何かちょっと女の子っぽい感じだなあ。
A 今からはちょっと想像できないくらいキレイに書いてますね。
布野 あはは(笑)。


1968年1-3月    東大闘争の背景
A 1968年の4月に入学した時はもう授業がないんでしたっけ。
布野 いや、そんなことはない。でも東大は入学式以前から荒れていた、医学部の処分問題があって。
A 3月ですね、処分は。
布野 医学部の処分は3月、卒業式、入学式阻止行動があって、教養学部も含めた全学ストライキが6月。6月20日に全学1日ストをやった。日記はその日が最初。強烈なインパクトがあったんだと思う。
A 先生がおっしゃった医学部処分問題は、東大医学部と青医連(青年医師連合)が、医師法一部改正、登録医制度に反対して研修協約の獲得を掲げてストライキに入ったのが1968年1月。大学当局による処分が3月【3月12日処分発表】。先生が入学する直前ですね。
布野 インターン闘争ということで医学部は1月に無期限ストに入った。当局が取り合わないでいる中で「医局長缶詰事件」が発生する。この件で学生17名が処分された。東大闘争は、医学部でまず火がついた。早稲田は少し早くて66年に学費値上げ反対で火種が燻りだしていた。そして、僕が高校3年で受験勉強しているときだから67年かな、アメリカのヴェトナム戦争を後方支援していた佐藤栄作首相がヴェトナムも含めて東南アジアを訪問するというんで、それを阻止する闘争が羽田であって、京大生が亡くなった中核派山崎博昭。東大全共闘議長の山本義隆は高校の先輩、社会学者の上野千鶴子は京大の同級生に当たる】
A 67年10月の羽田闘争ですね。続く11月には首相がこんどはアメリカに行くっていうのでもう一回羽田で衝突があります。
布野 佐世保エンタープライズ寄港反対運動もある【1968年1月、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】。そのころから活動家学生がヘルメットかぶってゲバ棒持って、デモをするのが日常的になっていく。街頭活動を展開したのは、ポリティカルな学生、新左翼の党派に属した。
 東大の話に戻ると、医学部と青医連がストライキに突入して、当局との小競り合いの中で「缶詰事件」が起こった。執行部がろくに確認せずに学生を処分した、そのうちの1人は現場にいない、実に杜撰な処分だった。不当処分ということで卒業式も入学式も阻止する構えの抗議行動になり、それが全学に広がっていった。青医連(青年医師連合)、医者の卵たち、つまり医学部の大学院クラスが自らのプロフェッションの基盤を問いながら立ちあがった。
 次に先鋭化したのは都市工学科かな。都市工では、公害の問題が大きかった。都市工学科は結構お役所から教授を招いてきていた。そうした中には公害についてどう責任取るのかと問われて全然答えられない教授がいた。大学院生の方が勉強もしているし、鋭い。痛快だったんだけど、その教授は自ら辞めざるを得なかったんだよ。団交(団体交渉)って言ったけど、すごく真面目なディベイト、学会、シンポジウムの趣があった。結局、東大闘争の根本は、何のための学問であり、何のための研究なのか、を根源的に問うことだったんだよね。高度成長を支えてきた産学協同体制は学問のあり方として果たしていいのか、ということが各分野共通の問題として浮かび上がってきていた都市工学科の大学院が無期限ストに入るのは1968年9月21日】。都市工は、医学部と並んで、東大全共闘の牙城のひとつだった。


1968年4月    東大入学の頃
布野 1968年の3月の卒業式はあったんだけど、学生たちの座り込みがあった。入学前に下宿先を探しに上京していてその光景を見てる。学生たちが卒業式の日に安田講堂前に座り込んで抗議していた。加藤登紀子がいた。歌手としてもうデビューしていたんだと思う、顔を知ってたんだから。入学式は4月12日だったけど、騒然としていて、僕なんかは安田講堂に入れなかった。
A 入学生なのに入学式に入れなかった(笑)。
布野 いや、規模からしてそもそも全員は入れないんだよ。
さっき見つけたんだけど、手書きのガリ版刷りのカリキュラムがある。43年4月って書いてある。
A おお、これは貴重ですね。ガイダンスとかもあったんですか。
布野 あったと思う。
A 赤線が引いてあるのは先生が取った授業ですか。
布野 そう。樋口清先生に図学を習った。鹿島建設から東大の先生になった、いま100歳くらいかな、ご存命だよ。樋口先生の下に、広部達也先生、横山正先生、野口徹先生もいた。太田邦夫さんも助手を2年くらいしてから東洋大に行ったんだけど、学生は伊東豊雄さんとか松永安光さんの世代だ。
I 布野先生はその頃どこに住まわれてたんですか?
布野 「基学寮」っていう民間の寮【当時の名簿では、布野の住所は「目黒区上目黒8-683」とある】。隣に駒場東邦高校っていう進学校があった。「基学寮」は、風呂は共同で、朝飯はついていて食堂で食べた。駒場寮は活動家の拠点だからと言って、地方から来る学生たちの親は避けたんだよね。東大に合格した松江南高校の同期3人と一緒にその「基学寮」に入ったんだ。そしたら、僕の真ん前の部屋に住んでいたのが佐伯啓思【1949-/経済学者・思想家】。いま朝日新聞で月1回「異論のススメ」というコラムを書いてる。佐伯は、西部邁【1939-/評論家】の弟子になって保守派の論客ということになったけど、彼が経済学部に行ってからも、しょっちゅう色んなこと議論してたよ。妹とも一緒に会ってた記憶がある。
A 妹さんもいたんですか?
布野 えーっとね、3つ違いだから出てきたのは3年後の話だけどね。妹は御茶ノ水大学の物理に行ってた。
A 保守派の論客って、その場合の「保守」はどういう?
布野 いや、それはマスコミの言い方だし、学生の頃のことじゃないよ。西部邁全学連の活動家だったし、新左翼だったんだけど、後にある種の転向をする。日本には守るべきものがあるっていうことをベースに思想を組み立てるようになる。彼は駒場(東大教養学部)の助教授になるんだけど、佐伯啓思はその研究室に入ったかどうか知らないけど、門下生になったんだと思う。京都大学教授になって、ごくわずか同僚だった時に一度飲んだ。それと彼は滋賀大学の経済学部に居たことがあるんだけど、僕が滋賀県大に移った直後ぐらいに訪ねてきてくれて、彼が主催していた『京の発言』という雑誌で対談(「京都の特権」 対談 布野修司×佐伯啓思2007年3月)したことがあるよ。


43S1-5B    クラス・民青・共産党
布野 僕のクラスは50人くらいだったけど、今でもそうだと思うけど、1年生は語学のクラスで編成されていて、「43S1-5B」といった。昭和43年のS1の5B、S1がサイエンス1(理科一類)でBはドイツ語でその5番目ということ。こういう暗号で自分のクラスを言うわけ。
A えっ、暗号?
布野 暗号っていうか記号、正式な言い方だったと思うけど。つい3年前から一緒に入学した同級生と集まり出したんだ。それが面白くってね、建築の同窓会行くよりも(笑)。東大副学長【松本洋一郎(理化学研究所理事)】はいるし、もう「前」になったけどね、物理学会元会長とかも、ノーベル賞級の仕事してるらしいんだけど、他にも多士済々。社会的には上下左右があるかもしれないけど、クラスメイトということでタメ口がきけてフラットなのがいいね。定年間近になって、学生の頃がなつかしくて集まりたくなったということなんだけどね。まあ集まると血糖値がどうとか、どこが痛いとかだけどね(笑)。一番の出世頭は乗り換え案内つくったジョルダンの社長【佐藤俊和】かなあ?いきなりITのヴェンチャー立ち上げて、今も新宿に100人くらいの会社かな?出版社も持ってる。面白いから毎年1回じゃ足りないって数人で時々会う。
 僕が入った年が、大学生が学生服を着る最後の年になったと思う。応援団の学ランは別だよ。次の年から一切学生服がなくなった。僕のクラスに一人だけ学生服着てないヤツがいた。教育大の卒業でね、格好良くてね、今でもギター弾くんだよ。PPMってわかる? ピーター・ポール・アンド・マリー、三人組、女性と、あれ兄弟だったかな? 過食症【正しくは拒食症】で死んじゃったんだよ。あ!あれはカーペンターズか。
I カーペンターズですねえ(笑)。
布野 とにかくバンドやってたその一人だけ学生服を着てなかった【入学式の写真をよく見ると実際は二人いた】
A 学ランは規則ですか、それとも習慣みたいなもの?
布野 規則にはない。東大で最初に学生服着なかったのは庄司薫らしい。次の年、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(『中央公論』1969年5月号)を書くんだけど60年安保の時にセーター着て本郷構内を歩いていたって話を聞いたことがある。当時みんなが読んだのは、後に文学部長になる柴田翔の『されどわれらが日々−』(文芸春秋、1964年刊/初出は同年の『象』7号に掲載)。東大生はそれ読むと、あそこの何号館のどこでというのがよくわかるから、みんな読んでた。柴田翔の妹が鈴木博之さんの奥さん【鈴木杜幾子 1945-】。美術史のね。
 当時、学生組織として共産党の「民青」日本民主青年同盟。1923年設立の日本共産青年同盟が前身。全共闘などの反代々木派学生や新左翼セクトトロツキストと呼んで批判】があった。僕らは43S1-5Bだけど、42S1-5Bの先輩が留年して、数人クラスに加わってくる。彼らがオルグするわけ。共産党系の学生組織、今でもあるでしょ。クラスで自治会委員の選挙があって、8人代議員を決めるんだけど、そうすると彼らが8枠全部持っていくわけ。なんか知らないけれど、そういう仕組みがあった。
I 43S1-5Bで入ったのが50人くらいいて、留年がプラス8人くらいいて、授業は60人弱だったと。
布野 そう。代議員は8人だった。自治会があってストライキ決議する場合は、重要だよね。僕らはというと一般学生なんだけど、「民青」諸君の演説を聞いてもあんまりピンと来ない。わりと早かったよ、「民青」おかしいんじゃないか、既成政党の指令で動いているだけなんじゃないか、ってみんな思うようになっていった。現場にいない学生を処分するってとんでもないって誰でも素朴に思うわけだから、スト決議自体はすぐ通った。全学、大学院も含めて。
A 決議をする単位は・・・
布野 学部単位。それ以前にクラス決議がある。
A 自治会すなわち「民青」というわけじゃないですよね?
布野 自治会は学生組織なんだけど、さっき言ったみたいな仕組みがあって、一般の大学では、「民青」が執行部を取るのが普通だった。しかし、1960年安保の時に分裂していたわけで、新左翼の党派が勢力を伸ばしていた。大学の学生自治会にも勢力を確保してきて、60年代末から70年代初頭にかけて逆転していった。東大の場合は、43S1-5Bだけじゃなく、それぞれのクラスで明確に逆転していく過程を経験したわけ、僕らは。次の年の代議員は8人全部が全共闘支持になったんだからね。「民青」を追い出しちゃったわけ。民青は当初から全共闘の占拠闘争を批判していたし、党本部の方針を優先していた。最終局面で「民青」も武装するんだけど、その攻撃対象は同じ学生、全共闘派だったわけ。経済学部の「民青」は実に強力だった。


6月20日全学1日スト、7月5日無期限スト突入
A 68年の最初は授業があったけど、6月から止まってしまうわけですね。第一次の安田講堂占拠は6月15日です。
布野 入学してしばらくすると連休になるでしょ。連休が空けて6月に入って、さっきも話したけど、6月20日には全学1日ストライキがあった。この時は、僕らは脳天気に授業に行ったんだよ。そしたら門が閉じられてて、ピケ?が張られてて、我々を入れないわけ、1年上の連中がね。意識的に留年した先輩もいたけど(笑)。それで「何でだ!われわれには授業を受ける権利がある!」って。そういう感じだった。日記にもそう書いている。
A 第一次の安田講堂占拠が15日で、17日に機動隊が導入されて学生たちの反発を呼ぶ。20日にいまお話のあった1日ストライキによる全学集会というのがあって、かなり盛り上がったんで、ようやく28日に大河内総長が姿を見せて弁明をする。心電図をつけて弱々しい老人みたいに現れるとか、芝居がかかった演出をしたっていう有名な話がありますけど、それは見ました?
布野 それは見てない。僕はその頃全然本郷に行ってない。
A そうですよね。今までのもぜんぶ駒場の話ですもんね。
布野 そう、大学に入れなかったとかいうのも教養学部の話。ロックアウトで。
A それ「ロックアウト」っていう言い方でいいんですか。
布野 逆だよ、逆。
A 「封鎖」ですかねロックアウトは大学側が機動隊を導入するなどして行う学校閉鎖】
布野 そう。僕らは「スト破り」とか言われた。破るつもりはなかったけどね。
A 勉強する権利があるっていうとスト破りって言われたわけですか。
布野 そう。授業を受ける権利があるって言ったよ。今は親が言う。手続き的には、各学部、各学年でスト決議をやっていく。それに従うのは当然というのが「封鎖」の論理。それで駒場の教養でも無期限ストに入る。島泰三安田講堂1968-1969』をみると、文学部は6月26日に無期限ストに突入してる。7月5日に安田講堂を占拠し【第二次安田講堂占拠】教養学部は同じ日に無期限ストライキに入った。


学園の状況はどう見えていたか
A 先生は松江から出てきてまだ3ヶ月くらいなわけでしょう。状況はだんだん理解していったっていう感じですか。
布野 いや、だいたいのことは分かってたよ、東京行く前から。
I さっきの早稲田とかの動きも高校時代から知ってらっしゃったんですか。
布野 もちろん。だから親父とか、いや親父はあんまり言わなかったけど、親戚の連中からは「お前東大入ったのはいいけど、ヘルメット被ったり、ゲバ棒もったり、そういうのやるなよ」とか言われて上京した(笑)。
A 僕も田舎だから何となく想像できる(笑)。
布野 だいぶん後の話になるけど、こっちが少し目覚めてきたら親父が心配してね。親父は松江市で建築とか都市計画の役人をしていたわけ。それで芦原義信さんとか菊竹清訓さんが設計で来るでしょ、親父は芦原さんに「うちの息子がアカになって困ってるんですけど」とか相談してたらしいよ(笑)。まさか、建築に入って教わるとは思わなかった。
A 面白い。いい話ですね(笑)。
布野 そしたら「若い頃はアカくなきゃダメだよ」って言われたんだって(笑)。いや事実ですよ。


自主ゼミはじまる
布野 とにかく気がついたら、大学が止まっちゃったわけ、動かない、無期限に。だけど我々1年生からみれば、ぜんぶ先輩連中がやってることなわけ。僕らは「えーっなんで」とか、「休みだいいなー」っとか言ってた(笑)。でも「やることねーなー」ってことになって、みんなクラスに集まって自主ゼミみたいなの始めたわけ。それが終わると、僕は渋谷で毎日のように映画観てた。名画座は100円か200円だった。駒場から渋谷は15分くらいで歩けるから。あとは安いガットギター買って、自己流でギター弾くというか、弾いたふりするとかね。そういう生活に入った。
 ただ自主ゼミはかなり力入れた。さっき言った物理学会会長になった倉本義夫とか、4〜5人でね、分厚い本を読んだ。高木貞治【1875-1960/数学者】の『解析概論』。数論というか類体論だよね。もちろん、高木貞治がそんな大先生とは知らなかったけど、フェルマーの最終定理に繋がってるんだよね。よっぽど力がついたよね。そういうことをやってた。大学は、自分で勉強するところというのは、僕の原点なんだよ。
 同窓会で聞いたら、あの頃もっぱら合コンやってたヤツもいたらしい。1年上に今話題の舛添要一【1948-/国際政治学者・政治家】とか、鳩山邦夫【1948-/政治家】とかがいて、法学部では鳩山が一番で舛添が二番なんて言うんだけど、彼らは駒場の町で麻雀やってたよ(笑)。
I クラスで集まるというのは、大学に集まってたんですか?
布野 うん、普段は。
A 授業はないけれど出入りはできた。
布野 もちろん。自主ゼミは教室でやってた。
A 街中でやってたとか、そういうことじゃないわけですね。
布野 色んな先生とも結構しゃべったよ。数学の先生とか、「俺なんかいつでもやめてやる」みたいなこと言ってた。
A 先生たちも大学には来てた?
布野 研究室には来てたよ。「俺はいつでもタクシーの運転手でもやって食えるから」 という教師もいたし、オドオドしてる教師もいた。完全に全共闘支持の教師もいた。
A 自主ゼミはじめたのは、封鎖・スト突入からすぐでしたか。
布野 正確には覚えていないけど割と早かったと思う。
A 夏休み入る前には始めていたという感じですね。
布野 4〜5月に授業何回かあったし、学生どうしは顔が知れるし、新歓コンパなんかやったのか覚えてないけど、渋谷かどっかで飲んだような気もする。だから自然に自主ゼミとかできたんじゃないかと思う。クラス会というのはあった。行くと上から留年して降りて来た連中がいろいろ演説してくれたのも情報源だった。
A ああそっか(笑)。暗号でいうと42Sの人たちですね。
布野 夏休み前まではいろいろあって、夏休みに入ったら帰省でしょ。
A それまでは全然本郷の様子は見に行ってない?
布野 野次馬的に何回かあるかもしれないけれど、そんなには行ってないと思う。


68年秋の鮮烈な記憶    10.21国際反戦デーの闘争
布野 帰省中の8月10日に大河内談話が出た。中身忘れちゃったけれど、「こうこうこういうふうにします」みたいな。田舎でそれ聞いて、「あ、これで新学期から授業が始まるな」って思った。状況解ってないよね。
 ところが9月に戻ってきても、一向に授業が始まらない。クラスで色々議論しはじめて、大河内談話も含めて相当問題だぞとか、「民青」のヤツらはおかしいとか、そういう議論がガンガン起こるようになった。ノンポリだって主体的にならざるをえない雰囲気が出てきた。
A 1年生クラスといえども秋口には政治的にざわめきはじめたわけですね。それより前に、50人のクラスのなかでも早く目覚めちゃうヤツもいましたか?
布野 かなりマセてたのは東京の連中ですね、やっぱり。
I 割合的には東京の出身の人はどのくらいいたんですか?
布野 どのぐらいだったんだろう、今はどのくらいなの、東大入学者に占める東京出身者の割合は。建築に進んでからのことイメージしちゃったかなあ。S1-5Bの時はどうだったかな・・・。普通のクラスだったけど、日比谷高校とか、教育大付属とか、やっぱり東京組はマセてたな。
A そういうヤツらは色々議論してるんですね。
布野 皆するわけだけど、僕は専ら聞く側だった。前出て喋るのは東京の学生が多かった。
A で、そのマセてる東京のヤツらというのは、皆、新左翼的というか、全共闘シンパ的だったという理解でよいですか。
布野 党派は原則として関係ない。むしろ党派を敬遠してた。「アンチ民青」は一致していた。学生たちの間では、全共闘が追求しようとしていることの方が正しいっていう意見がすぐ多数派になっていった。圧倒的に全共闘シンパが多くなっていった。
A 「民青」はダメっていうのは、共産党の組織の論理しか言わないというようなことですか。
布野 共産党も既に戦後民主主義体制の歴史を担ってきた組織だという感じかな。非転向の共産党と言われても、改革の方向は見えなかった。新左翼はもともと共産党と袂を分かって出てきたわけだしね。とにかく僕が鮮烈に覚えているのは秋からだね。「10・21」の国際反戦デーはすごかった【いわゆる新宿騒乱(1968.10.21)。8月8日に新宿駅で米軍のジェット燃料タンク車が爆発した事故を踏まえた反戦運動だが、新左翼は騒擾罪適用を覚悟して暴動・破壊を行う。東大本郷からは3千人が「出撃」したという】。新宿で電車が全部止まって、みんな歩かされた。歌舞伎町じゃ催涙ガスがバンバン飛んできた。革マルとか中核とか活動学生が暴れたわけだ。国労国鉄労働組合)もこれを機にストを打って交通は完全に麻痺。国鉄民営化は国労を潰すというのが大きな目的だった。学生も、どんどん街頭に出ていかざるをえないというか、攻めに出るそういう情況になったのは、1968年の秋口からだった。
全共闘運動は日大の方がちょっと先行していたんだけど、10・21のあと、11月に安田講堂前で合流するんですよ、日大全共闘と東大全共闘【11月22日の「東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会」】。僕はその場所にはいた。そのとき東大全共闘議長の山本義隆さんもそこにいた。感動的だった。


運動とメディア、山本義隆のこと
A その山本義隆さんが最近書かれた『私の1960年代』(金曜日、2015)を今日は読んできたのですが、山本さんの本だと日大全共闘が立派な日誌をつけていたと書いてありました。当時の運動は、行動しながら同時に記録するといった指針があったんですか。
布野 歴史に参加している、それを記録に残そうという気はあったと思う。僕の「日記」は、ただの個人的なメモだけどね。一方、機関誌は、戦いのメディアだからね。示威のためにもオルグのためにも出した。タテ看、ガリ版刷りは必須だった。あと、東大全共闘の機関誌『進撃』とか、ほとんどの大学の全共闘の機関紙は、ネットで読めるよ「1968-70全国学園闘争図書館」を参照 】。こういうのを山本義隆さんが集めてまとめたんだ。
A 山本さんが中心なのですね。
布野 中心というか、東大闘争関係はほとんど義隆さんが一人でやった。『東大闘争資料集』全23巻を執念で国会図書館に収めた(1992)。僕は義隆さんを尊敬していて。本、全部持ってる山本義隆『世界の見方の転換』1〜3、みすず書房、2004/『十六世紀文化革命』1〜2、みすず書房、2007 ほか多数】。予備校教師をしながら「科学史」の仕事をしていくことになるんだけど、全ての資料を原本に当たって原文で読んでる。天文学や透視術など、実際に解いてみせてくれている。プトレマイオス【Claudius Ptolemaeus, ca.83-ca.168/科学者】の『アルマゲスト』なんて難しいよ。建築や美術だって、アルベルティ【Leon Battista Alberti, 1404-72/建築家】とかデューラー【Albrecht Dürer, 1471-1528/画家】とかちゃんと扱ってる。あと青井先生は知ってるでしょ、オランダのシモン・スティヴィン【Simon Stevin, 1548-1620/数学者・物理学者】については相当詳しく書いてるよ。翻訳書もある【J・T・デヴレーゼ『科学革命の先駆者 シモン・ステヴィン』山本義隆監修・中澤聡訳、朝倉書店】
A ステヴィンですね。京大布野研がオランダ植民都市研究(1997-99頃)をやっていた頃によく名前が出ていましたね。山本さんは運動のことは同時代的には書いてないんですか。
布野 振り返って60年代のこと書いたのは『私の1960年代』が初めてでしょ。「金曜日」にたぶん書かされたんじゃないかな。ちょうど安保法制問題とかもあって。予備校教師としては、回顧談は書かなかった山本義隆『知性の叛乱:東大解体まで』(前衛社神無書房、1969)がある】
東大紛争文書研究会『東大紛争の記録』(日本評論社、1969)というのがあるんだけど、これ1月15日、安田講堂攻防戦の前にでている。すごい早い。まあ収束を望んでいたグループの編集だから、僕らは評価してなかったけどね。


新左翼諸党派と全共闘
A 少し時間を巻き戻して確認したいのですが、東大全共闘は、さきほど話のあった第二次安田講堂占拠、そして教養学部が無期限ストに入ったその日、つまり7月5日に結成されていますね山本義隆を議長とする全学共闘会議設立。ただしこの時点では「共闘会議」と称したらしい。安田講堂の占拠・解放以後、さらなる学生・院生の合流、一部の助手や医師の参加があり、名称もいつしか日大全共闘の名を真似た「東大全共闘」に変わり、10月以降の団交等でも山本が交渉の代表を務めた】。でも、その全共闘の勢力は、68年の春や夏には、クラスのなかではまだ力を持っていたわけじゃなかったということですね。
布野 さっきも言ったように、自治会の単位であるクラス代議員は、当初民青諸君が多かった。それが1年後にはクラスの代議員8人が全共闘支持になっていたということ。勢力はドラスティックに逆転したんだ。
A 全共闘が実効支配・・・
布野 実効支配ということは全くない。全共闘ってのは、別に司令塔があるわけじゃなくて、連合体だよね。
A ただ、全学連のレベルでみると、68年の時点では主流派はもう新左翼になっていると思うんですが。
布野 68年じゃなくて、60年安保をめぐって共産党が分裂して新左翼がでてきて、それが主流派になっていくんでしょ。
A 「全学連主流派」という言い方があって、その主流派というのはブント傘下の社学同のことを指すようです【全日本学生自治会連合(1948-)。当初共産党の影響下にあったが55年六全協以降は共産党批判派が「主流派」となった。西部は58年12月結成のブントに加盟。59年に全学連中央執行委員】【ブント=共産主義者同盟(1958-)。全学連という動員数最大の大衆運動を牽引して実績をあげた学生たちが、権威を失いつつあった共産党中央の指導に不満を膨らませ、独立の党派を立てた。共産党から独立した左翼党派として、また学生主体の前衛党派としても、世界初と言われる。指導部は香山健一、森田実らであったが、やがて島成郎、姫岡玲冶(青木昌彦)、清水丈夫、北小路敏らに移った。若手に、西部邁柄谷行人らがいた。ブントの活動は60年代後半の学生運動と重なりあう部分が多い】
布野 社学同は何色だっけなあ社学同共産主義者同盟社会主義学生同盟)は「学生ブント」とも呼ばれた。赤ヘルに白で「社学同」のロゴ】。ブントは赤ヘルだな。ドイツ語の略【der Bund der Kommunisten(1847-50)。ロンドンに亡命していたドイツ人共産主義者を中心とする国際秘密結社。bundは連盟・盟約・結社などを指すドイツ語】。その系列から赤軍が出てくる。
A それはもうちょっと後ですね日本赤軍連合赤軍ともに1971年創設】
布野 民青は黄ヘル。全共闘は、最後にかぶったのは黒ヘル。僕も一回かぶっただけだけど、黄ヘルにボコボコにされた(笑)。だからねえ、あるんですよ、「屋根のシンボリズム」っていうやつは(笑)。
A 先生がいつも「屋根のシンボリズム」っていう原点はそれですか(笑)。
布野 68年6月20日の全学1日ストで、授業を受ける権利があると言ったら「スト破り」と言われたって話したでしょ。あのとき、止めた方の学生のなかには、大西隆【1948-/都市工学】がいた。今は豊橋技術科学大学の学長で、日本学術会議の会長(2011-)。あの人、緑ヘルだったね。緑はフロント統一社会主義同盟社会主義学生戦線/緑地に、白い文字で「フロント」のロゴ】。フロントはマイナーだったと思う。すぐ消えた印象がある。
 青は社青同日本社会主義青年同盟)といって、社会党の青年部だよね【正確には、青ヘルは反帝学評(革労協社青同解放派・全国反帝学生評議会連合)で、スカイブルーのヘルメットに白で「反帝学評」のロゴ】。これはね割と感性派だった。芸術系の学生が多かった。
 それから白がややこしくて、中核と革マルとあってね【白ヘルに「中核」のロゴが中核派革命的共産主義者同盟マルクス主義学生同盟・全国委員会派)、白ヘルに赤テープが革マル派革共同・マル学同・革命的マルクス主義派)】。この二つは新左翼の諸党派のなかでは大きい勢力で、今でもずっとあるよ。中核派の方が多かったかな。革マルは東大だと法学部とか文学部に拠点を持ってたんだけど。
A 中核派革マル派は僕が京大に入った時もしょっちゅうやってました。たまに授業行って教室から外を見下ろしたらヘルメットとゲバ棒の集団が衝突してて、機動隊が入ってくる。ただ、何だろうとは思ったけど、全然知ろうともしなかった。
布野 まとめていえば、新左翼は青・赤・白・緑。全共闘つまりノンセクトが黒。これらに対して民青が黄ヘル。運動を引っ張った上でチャンバラをしてるのは下部組織である全学連の民青系と、新左翼に目覚めた中核派とか色々の党派が自治会の場のヘゲモニー争いみたいなのをしていた。僕のクラスの感じでいくと68年は民青系しかいなかったからね、それで新左翼系の党派の存在感はなかった。まあたまに演説くらい来たかもしんないけれど。で、クラスの中で議論していて全共闘シンパが出てきた。それが7月以降の全学ストに参戦とか、秋の色々な事件とかあって、大きな流れになったと、そういう経緯ですよ。わかりやすく先走って言っておくと、収束局面になったとき、全共闘派でもなくて民青系でもなくて「クラス連合」みたいな変な流れが出てくる。収拾派ですね。もういい加減にして授業を再開して欲しい、卒業できないと就職できなくなる、という意識かな。建築学科に進学した時の情勢は、雛芥子は全共闘派、日共系もいたんだけどまああんまりいない、大半はクラス連合派だったかも。
A また戻って確認したいのですが、1年生のクラスは皆ほとんどノンポリだったと考えてよいですか。
布野 僕の感じだとそう。だけど、同窓会で昔話聞くと、「えっお前そんな意識持ってたの?」とか「えっ、お前そんなこと考えてたの!」みたいなことはある。でもまあノンポリだったと思う。
A 特定の党派に属するってことはほとんどなかったと。
布野 うん。でもまあ、雛芥子の枝松克己さんは中核派だった。重村力さんも中核シンパだったと思う。でも中核ったって、ピアノ弾く山下洋輔【1942-/ジャズピアニスト、作曲家、作家】とかも近いとこにいて、「DANCING古事記」っていうレコードがあってね、そのレコード盤を売ってて、俺も手伝わされた。
Y すごいタイトル(笑)。
布野 そんなんいっぱいあったよ。発禁とかね。
A どうも僕は理解していないようなのですが、今お話のあった新左翼系の色々な党派と、全共闘運動との関係は?
布野 全共闘と党派は別の論理で動いていた。もちろん、影響関係はあるよ。ただ、安田講堂に籠る時も、党派は意思決定機関に入れてない。党派党派で、たとえば中核は勝手に法学部にこもるとかね、空間的に棲み分けるというかたちをとった。
I つまり大学の占拠は、全体としては新左翼各党派も加わった形ではあったのだけど、意思決定も空間も別であったということですね。
布野 そう。


1969年1月    収束局面
A すでに安田講堂での最終的な局面の話に移りつつありますが、どのような経緯でそこに至るわけですか。
布野 全共闘と大学当局とが非和解的になってやがて執行部も焦ってきた。入試実施の問題が大きい。要するに自民党政府が脅かし出したわけ、管理不行届きだからもう入試やらせない、東大は潰すぞと。で、大学の執行部は焦って、収束させないとえらいことになると思った。これまでの運動の論理とは違う、そういう論理というか外圧がかかったわけだから、衝突は避けられない、最終局面になる。そういうことが全共闘側でもわかる。
 年が明けて、69年の1月10日に秩父宮ラグビー場の集会というのがあって、加藤代行からの「10項目の確認」という条件の確認書が提示された。全共闘は参加しなかったけれど、それから一部ではスト解除の決議がなされていった。
 そういう状況で、安田講堂に残るか出るかということになる。将来の大学のポストを失うかもしれない、卒業後の就職が無くなるかもしれない、そんなことを思いながら、僕は入りますよ、僕はやめますよ、という決断を迫られた。その時、組織原理として、山本義隆さんは全共闘組織をその後も温存するために安田講堂から出た。内田雄造さんは入った。鈴木博之さんは出た。
 この頃には、民青諸君は秩序派に立っていた。要するにこのまま東大が解体されちゃ困るということで、執行部と手打ちする。今言った「10項目の確認」の後、各学部でスト解除の決議が行われていくんだけど、民青諸君は、武装して実力で封鎖解除を始めた。その攻撃対象は同じ学生、全共闘派だったわけ。黄色ヘルの民青は強くてねえ。怖かったよ。とくに経済学部の民青は実に強力だった。それからクラス連合代表、つまり収束派も当然だけど「10項目の確認」を呑んだわけ。そうして孤立した全共闘安田講堂に立て籠もった連中が1月18日〜19日にかけて機動隊によって排除された。
 執行部としては、片付けたんだから入試をやらしてくれって言ったんだけど、当時の佐藤首相、坂田文部大臣そして自民党は、入試はやらせない、という結論になった。大学入試は、東大に決定権があったんだけどね。大学の自治は踏みにじられたわけだよね。この時に。
I 入学の時点では大河内一男【1905-84/経済学者】が総長だったわけですよね。
布野 そう、大河内一男。生産力理論で有名な。賞もらったり叙勲を受けたりしてる。しかし、身体の調子を悪くして、ちゃんと対応できなかった【68年11月1日辞任】。結局、総長は、若い、40歳代前半だった加藤一郎【1922-2008/法学者】が代行になる【11月4日就任】。彼は法学部長だったんだけど、翌年の収束局面では加藤さんが全面的に収拾に当たった。2年前の1月のNHKのクローズアップ現代で「東大紛争45周年」という特集やったけど、ブレーンだった教授が数人いて、座談会の記録を残している。坂本義和【1927-2014/政治学者】かな、最後まで機動隊導入は反対だったという。大学の自治が優先で、入試実施は大学の専権事項と主張したという。
A 最後は・・・
布野 1月の18日と19日かな。11月に創刊号が出た、東大全共闘の機関誌『進撃』の一面を見ていくだけで経緯はわかる。広告が懐かしくて面白いんだけど(笑)。羽仁五郎『都市の論理』(勁草書房、1968)とか、西川一郎訳『五月革命』(合同出版、1968)とか【著者は「3月22日運動」名】ポール・ニザンの著作集なんか、全部買って、まだ持ってる。あるよそこの本棚に。『進撃』創刊は何日って書いてある?
A 11月9日ですね。このときもう加藤代行ですね。
布野 もう変わってる。鈴木成文さんは助教授だったけど加藤代行のブレーンだった。
A あ、それ知らなかった! そうだったんですか。
布野 しゃべったよ、前に多分(笑)
A そうでしたっけ。当局側というのは知ってましたが、学長代行のブレーンだったとは。なるほど。それ知らないとあの漢詩の背景が分かりませんね漢詩「共闘移 猫奴/天昏地黒 共闘移/師驚友激 寝派随/青論七條 化土為/甲竿徒懸 吁悲可」(共闘移る ニャロメ作/天は昏く地は黒く 共闘移る/師は驚き友は激り 寝派は随う/青論七條は化して土と為る/甲竿徒らに懸かる 吁悲しむ可し)。鈴木成文先生自身は全共闘が使っていた便所に貼ってあったのを採集したと言っているが、鈴木作とも言われる。青井が神戸芸工大の助手[1995-2000]の頃、当時学科長だった鈴木先生が書いて下さったことがある】
布野 それで号外が出るはずなんだけどね。『進撃』のその号、日付は?
A 1月15日。
布野  1月15日。直前だね? この前に加藤代行の提案があって、安田講堂は4ページくらいの号外のはず。これが1月21日付だから陥落後の号だよね。全共闘側から言うと、入試を潰したわけだ。68年11月からの東大のことならこの『進撃』で動きはわかるよ。こういうのが日大も全部あったし、明治大学もあるし、早稲田もあった。
A たしか他大学のグループも本郷にいたんですよね。
布野 正門の左手に工学部の事務が入ってる工学部列品館があるでしょ、ここに籠ったのは明治大学の学生たちだったというのを後で知ったけど、向かいの建物から水平射撃をやられて、眼球が飛び出る重症を負わされた学生もいた【ガス銃は、催涙ガスを詰めたガス弾を用いるが、火薬を使った銃であり、水平射撃は危険なので禁止されていたが、機動隊は容赦しなかったといわれる。一号館では不退去の学生1名が逮捕されている。島泰三安田講堂1968-1969』中公新書、2005参照】。そういうふうに周辺を片付けてから、本丸の安田講堂に行った。


陥落後の顛末    圧縮された68-69年
布野 で、問題はそこからなんだ。僕なんかは、さっき言ったように、野次馬として10・21の国際反戦デーに行った。当時は頻繁に国労の諸君がストやって電車止めたから、わりと普通だったんだ、線路を歩くことなんかもね。1月18日のときも安田講堂の周りをぐるぐる回ってた。見に行った、完全に野次馬ですよ。でも、歴史的な現場にいるという高揚した感じはあった。ぐるぐる回っていたら、『週刊朝日』か『朝日ジャーナル』かの記者に取材されたんだ、喫茶店に連れ込まれて、まあ記事にはならなかったけど(笑)。
しかし、問題は解決していないんだから、その後もそんな簡単には収束しないわけですよ。駒場駒場で未だ立て籠もっていた、駒場全共闘が。69年の4月には授業が再開されて・・・うーん、忘れたなあ。記憶が飛んでる。最近わりと駒場に行くんだけど変わっちゃっててピンとこない、建て替わってるから。8号館だったかな。結局最後にそこも陥落して、春からは授業再開みたいになるんですよね【8号館が駒場全共闘の本拠地で、69年1月末に陥落した。加藤代行執行部は69年3月14日に退陣表明するが、加藤は3月23日の総長選挙で当選】。4月17日に雪降ったこと覚えてる。本郷で授業を受けてて・・・、うーん、ちょっと混乱してるなあ。とにかく授業再開ってことになったけど、2年間をすごい縮めてやらなきゃ。
A いえ、慌てなくても大丈夫ですよ。
布野 違う違う、休校してたんだから、遅れを取り戻すために時間を縮めてやったってこと、授業を(笑)
A あ、授業の話ですね(笑)。このインタビューのことかと。
布野 1年生の7月から授業やってないんだから(笑)。何かねえ、すごかったよ。冬休みに夏休みがあって・・みたいな感じでズレていってさ、僕の卒業は72年4月30日付なんだけど、上の学年は71年6月30日なんだよね。卒業の日付が。僕ら下の学年は入試がないから留年生しかいない、上の学年は2ヶ月遅れ、僕らは1ヶ月遅れ。たぶんそんな例は他にはないんじゃない。
A そうでしょうね。
布野 僕なぜか助手になったのも5月1日付けだし、講師になったのも5月1日付けだから、大学に書類出すと事務に訂正されるのよ、履歴書が(笑)。それにこの1ヶ月のせいで給料いくら損したか(笑)。
A つまり学部は4年と1ヶ月で卒業ってことですか?
布野 うん。何ヶ月か遊んでたからね。6月からストライキだし。
A で、2年生からもう建築の勉強はじまるんでしたっけ?
布野 東大の仕組みだと入学から1年半分の成績でアプライするわけ。そこまでで取った単位と成績でもって順位がついて、それで建築なら建築の応募者の順序で決まってく。最近、東大の建築学科は定員割れしてるみたいだけど。
A つまり通常のルールでいくと、1年半経ったところでの成績で見て、3年から建築学科の授業ですか。
布野 いや、2年の後期からもう専門の授業が一部始まる。それで僕は丹下さんのアーバンデザインという科目を駒場で聞いてる。
I 教養の学生が駒場にいるから、丹下さんが駒場に来たってことですか。
布野 そう、2年の後期分は専門の先生が来てやってくれるのが何科目かあった。あっ、そのビラとか機関誌とか、日付順に並べてみますか。
A それはいいですね。
O あ、クラス名簿が出てきました。
布野 素晴らしい! こいつらだ。そうそう日比谷高校出身とかね。
A この名簿、同窓会に持ってかないといけませんね。
布野 おお、そうだね。この小蒲ってのがね、つい最近6月まで東大の教授だった。一番仲よかったけどね。この倉本ってのがさっき出てきた物理学会元会長。あ、コレ、俺ガリ版刷りで雑誌みたいなの作ってたんだ。『fin』という映画批評誌。それと、あっ、青井先生これ。「日本の社会体制における東大の地位及び東大生としての自分の地位」。
A おおっ、スゴそう。これ何か活字になった原稿ですか。
布野 バカ、するわけないだろ(笑)。これ授業のレポートの下書きなんだから。
A ええっ、レポートなんですか?
布野 何のレポートかっていうとねえ、構造力学(笑)。
A 本当ですか!?
布野 それ書けって。梅村魁先生が。
A ええっ。課題を無視して、勝手なこと書いたんでしょ。
布野 違うよ課題なの。真面目な。まあこんな感じだった。試験はあったんだけど7割はレポート。構造力学でも。梅村先生はすごい特別な先生だったと思うけど。僕は建築行ってからお酒にむちゃ付き合わされた。武藤清、梅村魁、青山博之という系譜。それで、僕は結構というかかなり成績よかったんだよ。振り分けのとき順位が送られてくるんだよ。だって7割方はこの手のレポートだったんだからね。
A つまり、68年の4〜5月にちょっとだけ授業があって、その後はその年度は全くなくって・・・。
布野 3月までない。
A それで2年目、69年4月には授業は再開されて、それからの半年で、1年生と2年生の前期くらいの、計1年半分やるとか、そういう感じだったわけですか。
布野 うん、そう。
I 冬休みに夏休みがあったとか、そういうふうにズレ込んだと。
布野 全然ズレてる。だから、大学ってのはいい加減なもんなんだなってのが原点にある。今の方が異常かもしれない。
I 卒業が4月末だったってことは、3年生とか4年生が始まるのも4月じゃなかったってことですか?
布野 正確に振り返らないと分からないけど、進学したのはズレてた。縮めるために休みを削ってた。だから駒場の時に・・・色々あんだよね。そうそう、三島由紀夫がくるんですよ。全共闘公開討論会に。あれは68年だったかな。さっき雪降ったって言ったでしょ、その日に自決のニュースを聞いて呆然と雪見てたような気がする。
I 三島由紀夫の自決は1970年11月25日ですね。
布野 じゃあ違う。公開討論会は68年だと思うけどなあ。
I 東大教養学部全共闘主催の討論会ってのは1969年5月13日ですね。
布野 ああ、そしたら駒場はもう1年頑張ったってことだ。三島の討論会は900番講堂でね、司会やったのが小阪修平【1947-2007/評論家】、だいぶ前に死んじゃったけど、一冊彼の編集する本に書いたことある【「廃墟とバラック小坂修平編(1987)『地平としての時間』作品社】


閉じる集団、分裂の先鋭化
A ちょっと今日の話の範囲を超えますが・・・、赤軍などは、全共闘運動が終息しても、それでも収まらなかった人々が過激化していったものですか。
布野 いや違う。そうじゃなくって、60年安保をきっかけに新左翼が出て、新左翼がアンチ日共系で運動を展開して、お互いにゲバをやりだすでしょ。その後もそういう内ゲバによる分裂と過激化が進む。つまり集団が運動のなかで理論を先鋭化させると必ず衝突する、そういうかたちで赤軍が出てくる。理論というのは革命戦略ですよ。要するに、日本をどういう風に革命していくかが問題。赤軍派は、世界同時革命をうたった。中枢には理論家がいて、理論闘争があった。
 僕が建築入った後にわかった話だけど、二つくらい上に枝松克己さんがいて、雛芥子の仲間になるんだけど、獄中立候補ですよ、自治会の会長選挙に。すっげえ過激だなって思った。でも付き合いだしたらすごく優しい。今でもコンサルやってますけどね【株式会社メッツ研究所】
 だからノンポリが目覚めて、赤軍に行ったってのとはちょっとちがう。
A たしかに赤軍新左翼のブントから出てくる、というお話がさきほどもありましたね。新左翼諸党派は全共闘とは基本的に別であって、赤軍などは新左翼の党派のなかの分裂っていうことですね。
布野 分裂の先鋭化ね。でもね、僕なんかでもそういうところに参加してもおかしくない状況にあった。事実、建築学科に入った後で通っていた本郷の正門前のラーメン屋でバイトしてた女の子が連合赤軍に行って殺されて埋められていたとか、三里塚の応援に行ったら昨日一緒に喋ってたヤツが翌日首吊ったとか、そういうことが僕の周りで起こった。要するに集団が閉じていくと、お互いの存在を抹殺してしまうところまで行きつく力学が働くというのは、身に染みてわかる。赤軍に行ったのでいうと、都市工に川島宏さん【当時大学院2年生】がいたんだから割と身近だった。それこそよど号ハイジャック事件(1970.3.31)とかテルアビブ空港乱射事件(1972.5.30)とか。テルアビブで生還した岡本は英雄になったんだけど安田安之は、後から知ったけど京大の建築で、三菱重工の重役の息子だった【テルアビブで乱射事件を起こしたのは、日本赤軍幹部の奥平剛士(当時27歳、京大工学部出身)と、京都大学工学部建築学科の学生・安田安之(当時25歳)、鹿児島大学農学部の学生・岡本公三(当時25歳)の3名】
A 京大の西部講堂っていう木造のお寺みたいな建物の瓦屋根に、三つ星が描かれてて・・・
布野 そうそう星が三つ(笑)。
A ええ、赤軍の彼らがテルアビブで星になったんだというような伝説は聞かされました【1972年8月16日、大文字の送り火の夜に、京大農学部グラウンドで「三里塚空港粉砕」をスローガンにした「幻野祭」が行われた。このとき美大生によるシュールレアリズム風のデザインとして三ツ星の模様が描かれたが、日本共産党がそれを見てテルアビブの三人の兵士だと指摘。生還した岡本公三が裁判で「われわれ3人は、死んでオリオンの3つ星になろうと考えていた」と陳述した事を参照する指摘らしい。幻野祭では実際に奥平剛士と安田安之の追悼集会が西部構内で実施された】
布野 いまのIS【ISILとも】に巻き込まれるみたいな感じかもしれないね。とにかく集団が閉じると、議論を突き詰めると、そうなるよっていうことは僕は学んだ、閉じてるといい加減なごまかしもする場合もあるけど、先鋭化すると相手を抹殺する所に行きつく。
A なるほど。色々な意味で布野先生の原点が1968-69年にあることがわかってきました。そろそろ時間ですので今日はここまでとさせてください。ありがとうございました。